ブッダの耳たぶ日記

3/25(月)

暇すぎたので、バスで隣町のマルメへ。気持ちが暗めだな、と思っていたら空もすごく曇っていた。空いっぱいの雲を見ながら、空っぽの気持ちってこんな色なんじゃないかなと考えていた。わたしがそういう気分の時は、真っ黒じゃなくてこういうもやもやした灰色が渦巻いている気がする。ちょっとわたあめみたいで可愛いね。

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服屋さんで試着したら、自分の後ろ姿の嘘みたいな立派さに三度見くらいしてしまった。突然自分を後ろから見ることができてしまう二面鏡というトラップ。ふとした瞬間に絶望してしまって服どころではなかった。

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COSでべっこう飴みたいなピアスを買った。透けるのめちゃくちゃ可愛い〜と思って買ってつけてみたら、ブッダの耳たぶにしか見えない。

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小さなカフェで、美味しいホットチョコレートとショコラクロワッサンを食べた。自分をめちゃくちゃに甘やかしている。毎日一章ずつ読み進めている『How to be a good creature』を読む。洋書を読むのは、今のところ楽しさよりも義務感がエネルギー。

How to Be a Good Creature: A Memoir in Thirteen Animals

How to Be a Good Creature: A Memoir in Thirteen Animals

 

今日読んだのは、誰からも愛し愛されるペットの豚の話。ほっこりした。

He was a great big Buddha master. He taught us how to love. How to love what life gives you. Even when life gives you slops.

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気になっていた図書館へ。シンプルだけど洗練された空間。たくさんのソファーや絵画、カラフルなインテリア、居心地のよい場所。漫画もたくさんあった。旅行の計画を立てようと、SkyScannerや各エアラインのホームページと格闘したけれど、行き先や日程を考えて、価格を吟味して決定する、というのがいつまでたっても苦手すぎて、何も収穫がなかった上にヘトヘトに疲れてしまった。優柔不断は航空券の値上がりと相性が悪い。

帰り道が暗くて怖かった。田舎の夜道は、誰かに襲われるかもしれない!という恐怖ではなく、誰もいないよどうしよう!と、足を早めたくなる静かな不気味さがある。

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ハヤシライスを作った。限られた数のルーとレトルトのご飯を一つずつ、解禁した。そもそもあまり白米を食べない人なので、ごはん食べたい!という衝動に駆られることはあまりないけれど、ありとあらゆる日本食が恋しく、さすがに美味しすぎて泣きそうになってしまった。

 

3/26(火)

洗濯を予約したり、ゴミを捨てたりなど。特に何もしていない。バルト三国の予約をついに全て完了した。頭がおかしかった時に、頭がおかしい友達と計画した旅行なので、3ヶ国を3日で回るという意味わからない日程になってしまっている。よりよいバスや宿などをがんばって調べたけれど、どうがんばっても大変な旅になるだろう。生きて帰りたい。

友達と電話した。最近ついにYouTubeに目覚め、二人して東海オンエアにだだはまりしている。暇さえあれば動画を見まくっているので、詳しすぎて引かれた。いつも三人で会っていて、わたし以外の二人は絶賛就活中なのだが、就活については話したい時に話したい方が話す、それ以外は聞かない、という暗黙のルールになっている。ストレスを振り切るかのように、ジャニーズがコンサートで服を脱ぎ散らかす問題や、その筋肉の度合い、深キョンドラマのエンディングの素晴らしさなどについて語っていた。

もう一人の友達の近況を聞いたところ、就活のESのバイト欄に、他に書くことがないので正直に「ガールズバー」と書いて手当たり次第人事の度肝を抜いているらしい。最近は学習して「バー」にしているものの、店名に「ガールズバー」と入ってしまっているので勤務先の欄で結局ばれて質問攻めにあっているとのこと。面接で座右の銘を聞かれたら「目には目を、歯には歯を。」と答えて相手を震え上がらせているらしい。就活というのは完全に企業>>>就活生で、選ぶ側と選ばれる側のパワーバランスは絶対なはずなのに腕力で乱しに行くな。「希望していない部署や仕事に当たってしまった時はどうする?」という鉄板の質問には「どうしても合わなかったら上司に言って変えてもらう。それでも無理なら社長に直談判する。それでも本当に無理なら転職します」と答えて、同じグループの就活生に「転職って答える人初めて見ました」と引かれていたらしい。ぶっ飛んでいるけれど相変わらず破天荒で愛さざるを得ない。幸あれ。

夜ねむろうとしたら、火災報知器が鳴り響いた。向こうの建物だと思い込んで知らんぷりしていたら、自分の建物だった。廊下から人の声がして、顔を出してみたら、なんだかみんな避難する雰囲気だったのでわたしも避難してみた。下の階が煙たかった。結局火は出ていなくて、料理を失敗でもしたのか煙が蔓延して火災報知器が鳴ったらしいが、もし本当に火事だったらわたしは逃げ遅れて死ぬタイプだなと思った。

 

3/27(水)

友達が誕生日プレゼントにくれたいちじくのジャムが美味しくて、朝から幸せだった。隣町でどれだけ探しても見つからなかった、LAMYの万年筆のインクをゲット。店員さんに聞いたら箱いっぱいのカラフルなインクを出してきてくれて胸が高鳴った。普通の黒を買ったけど。こじんまりとした、文房具のセレクトショップみたいなお店。日本の文房具がたくさん置いてあって、わたしが何年も愛用している、ミドリのノートも売っていて、嬉しくなって聞いてみたら、「わたし達は日本の文房具を愛しているの!」と言われて、なぜだかわたしが嬉しくなった。ヨーロッパの片隅で日本の文房具を愛している人がいるということ。

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お昼ごはんにFisk soppaを食べた。わたしが北欧に求めていたものはこれだったんだよ〜〜!という気持ち。 野菜と魚がゴロゴロ入っていて、サフランの香りに温まる。最高だ。スウェーデン人の友達に、スーパーで売っている魚介類はどうしてあんなに高いのかと聞いたら「獲りすぎちゃったからもうないんだよ」と言われた。

午後は学校で Gastronomy の授業。オーガニック食品などのナチュラルフードはなぜ人気なのか?というテーマ。オーガニック=いいもの、という神話はなぜ作られるのか、コミュニティを食べる、ということについて。おもしろかった。

突然ひらめいて、だし醤油とにんにくときのこと茄子のパスタを作ったら、美味しすぎて自分に感動してしまった。その後、友達の家でプレドリンクを開催し、ひさしぶりに大学のクラブへ。平日の真夜中22時から2時まで踊り狂うというこの謎の儀式が毎日どこかで繰り広げられているとか本当に狂ってるとしか言いようがない。ダンスホールで人間観察する以外にまったく楽しみが見つけられない。

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初めて行った時、男女がお互いに狙いを定めて、だんだん距離を詰めて踊り合うシーンに立ち会って、本気で鳥の求愛ダンスかと思った。途中から、つまらんねむい疲れた帰りたいということ以外考えられなくなる。しかし頑張って、まるで心からこの音楽に酔いしれていますよ風に体を動かすわたし。偉い。わたしの遺伝子には、ダンスとかクラブとかそういうのを楽しいと思うDNAが徹底的に排除されているのだと思う。疲れた。

 

3/28(木)

昨日疲れすぎてそのまま寝てしまって、お昼に起きた。一度はまったものをそのまま続けてしまう習性があるので、また和風パスタを作った。丸一日、屍のように過ごしていた。昨日すべての陽のエネルギーを使い果たしてしまったので空っぽだった。クラブに繰り出すよりも家でゴロゴロしている方が何十倍も幸せだと実感する。この幸せの価値を改めて実感するためには、時折社交性を爆発させる苦行も重要なのだ・・・と思い込むことにする。Netflixで、『マスター・オブ・ゼロ』と『Blooklyn 99』を見た。水筒の蓋に誤ってじゅうじゅうのにんにくを落としてしまって、洗っても洗ってもにんにくの匂いがして、どこまでも悲しい。

 

3/29(金)〜 3/31(日)

弾丸ウィーン旅行に旅立つ。フェルメールの話から、友達に「『何にでも牛乳を注ぐ女』って知ってる?」と聞かれ、数年前別の友達と弾丸北海道旅行に行った時に井上涼さんの『赤ずきんと健康』と、この『何にでも牛乳を注ぐ女』をおすすめされ、二人で永遠ループした結果次の日大寝坊して1泊の旅行だったのに何の観光もできなかったことを思い出した。ペーパードライバーなのにレンタカーを借りて、6車線超えの信じられない大通りで左折禁止のところを左折しようとしてしまい、目の前がこちら向きの6列の車の軍勢だった瞬間を思い出す。戦慄のすすき野。これまでの人生で一番死に近かったし、あの6列分の人たちにも申し訳ないことをした。不可能に近い構造の駐車場に挑戦して、友達が外から指示を出してくれて、30分かけて車を入れた。あれはいい旅だった。そんなことを思い出してから、NHKで「びじゅチューン!」という番組をやっていると知り、突然井上涼さんに再びハマる。現在、過去作を全部見返している最中である。至らぬ点はごめユニコーン


赤ずきんと健康

お散歩の途中の電信柱にも、偶然ユニコーンがいた。みんなちがって、みんな美しいらしい。やさしくてありがユニコーンだよ。

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本を贈ることをめぐる記憶

幼い頃、生まれた年や月齢や発達や季節や性別に合わせて、毎月一冊配本してくれるというブッククラブに入っていた。子どもに絵本の読み聞かせをする、という教育の一環のようなもので、わたしは中学生に上がるくらいまで、その本を受け取っていた。

田舎の片隅にある魔法使いの家みたいな場所で、優しくて物知りなおじさんとおばさんと、たくさんの本とおもちゃと、そして黒猫がいた。毎月お母さんと本をもらいに行って、その度に冷たいオレンジジュースをもらって、おしゃべりをした。子どもながらに、ここは特別な場所だと思っていた。もう記憶は薄れてしまったけれど、本と猫と魔法使いのおじさんとおばさんがいつも待ってくれている、ゆめを売る場所だった。そこで大好きな本にたくさん出会った。(今でも覚えている好きだった本の一部)

こんとあき (日本傑作絵本シリーズ)

こんとあき (日本傑作絵本シリーズ)

 
ペレのあたらしいふく (世界傑作絵本シリーズ)

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ずーっと ずっと だいすきだよ (児童図書館・絵本の部屋)

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あさえとちいさいいもうと (こどものとも傑作集)

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かいじゅうたちのいるところ

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都会のトム&ソーヤ(1) (YA! ENTERTAINMENT)

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へそまがり昔ばなし (ロアルド・ダールコレクション 12)

へそまがり昔ばなし (ロアルド・ダールコレクション 12)

  • 作者: ロアルドダール,クェンティンブレイク,Roald Dahl,Quentin Blake,灰島かり
  • 出版社/メーカー: 評論社
  • 発売日: 2006/07/01
  • メディア: 単行本
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フェアリー・レルム (1)

フェアリー・レルム (1)

 

本当にいい時間をもらっていたな、と思う。今でも人に本を薦めてもらったり、貸してもらったりするのが好きなのは、わたしを形成する根っこの部分に、自分にだけ向けた本を誰かが贈ってくれるという幸福を待ちわびていた感触がずっと残っているからかもしれない。 

きのう読書感想文を書いていて、お母さんが大学生の時に誕生日プレゼントで『夜と霧』をもらったことがあって、すごく驚いて今でも忘れられない、と言っていたことを思い出した。その話は何度も聞いたことがあった。人に本をもらうって、本当に素敵だなー。本だけじゃなくて、わたしのことを思ったり考えたりする時間をもらってるんだ。ロマンチストみたいなことを言ってしまうと、祝福みたいだと思う。

誰かの中にわたしがいて、ふと何かいいものとか悪いものに触れた瞬間にちょっとわたしのことを考えて、ああこれ好きだろうな、とか、どう思うかな、とか、気持ちをちょっとこっち側に分けてくれるの、すごく嬉しい。

そんなわたしは、ある年サンタさんに桜庭一樹砂糖菓子の弾丸は撃ちぬけない』をもらって、どんな可愛い話なんだろう!とわくわくして読み進めたら、とんでもないサイコ物で、父親に虐待を受けていた女の子がバラバラ死体で山に捨てられている話だったことが忘れられません。

きみに贈る読書感想文

留学先が一緒の友達に、勇気を出して本を貸してもらった。日本の本を読みたいのはもちろん、前々からすごい人だと思っていたので、どんな本を読んでいるのか知りたいと思った。

「なんでもいいからおすすめの本を貸してほしい」というのは、本当に難しい注文だと思う。誰の、どんなジャンルの、どの本を、何冊選ぶのか。ある程度相手の趣味や、貸してほしいと言われているジャンルが絞られていればまだいいけれど、「なんでもいい」というのは究極の難問だ。わたしだったら、これを選んだらどう思われるんだろう…趣味悪くないかな…これ渡すのは恥ずかしいな…こんなに多いと押し付けがましいよな…と、過剰な自意識に苛まれて一週間くらい悩みそう。

『キングダム』と『進撃の巨人』の新刊が出るたびに貸してくれていた大好きなバイト先の社員さんに、おすすめですと言って藤岡拓太郎さんの『夏がとまらない』を貸したら、想像していた反応の斜め下でへこんだことを思い出す。

一番いいのは、「最近何読んだ?」「◯◯だよ〜面白かった」「え〜いいな〜読みたい。借りてもいい?」「もちろん!」というこの超王道かつ究極にナチュラルな流れ。本当にいいと思った本をタイムリーで貸せるし貸してもらえるし、少なくとも自意識の空振りは避けられる。この流れをお互いに踏襲し続けられる友達は偉大だ。

 

人に本を貸したり、借りたり、おすすめを薦め合ったり、人の本棚を見るという行為がそもそも大好きで、雑誌のあの人の本棚特集とか、ブログに写り込んだ本棚とか、趣味悪く隅々まで拡大してチェックしてしまう。SPBSでやったロロ展の三浦さんの本棚たのしかったなー。

けれどわたしの好きの割合は、多分薦めるのが好き2割に薦めてもらうのが好き8割くらいで、自分が同じように頼まれると困るくせに、頼む時のわたしは無慈悲なキラッキラの目でときめきに満ち溢れて「なんでもいいよ!おすすめ貸してほしい!」と食い気味に言ってしまう。

 

彼も同じように悩んだのかもしれないし、もしくはわたしのように無駄にひねくれてなんていなくて、素直に面白かった本を選んでくれたのかもしれないけれど、寒い中自転車を漕いで待ち合わせ場所に来てくれて、手渡されたのは、この4冊だった。 

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

 
もものかんづめ (集英社文庫)

もものかんづめ (集英社文庫)

 
夜と霧 新版

夜と霧 新版

 

この本の並びを見た時、不覚にも一瞬で恋に落ちそうになってしまった。わたしが人のことをちゃんと好きになれる人間なら多分好きになってしまっていたと思う。(相手には当たり前に素敵な彼女がいることが後に明らかになったけれど)

どれも読みたいと思っていたけれど、なんだかんだまだ読めていない本だった。特に『夜と霧』は、向き合うのが怖くてためらっている自分がいた。感動したから、と言って『夜と霧』を人に手渡すことができる、そしてその覚悟がある人は誠実だと思う。そしてさくらももこのエッセイを一冊挟んでくれるおちゃめさ。

 

『かかとを失くして』は、初めての多和田作品。文学的な情緒を噛み締められる人間になりたいけれど、第一印象は「一文ながっ」でした。不思議な文体に不思議な世界観。外国語を左から右に日本語に翻訳していくのを目で追っている感覚。

素直な感想は「よくわかんなかった」だけど、それ以上にわかりたいという気持ちがあるので、他の作品も読んでみたい。ネットで読んだインタビューがめちゃくちゃ面白かったし、視点が鋭くて深くて魅力的な人だと思った。言語という不確かなものへの信頼と肯定。絵画や歴史や神話、散りばめられた要素が物語の中で繋がっていく。わくわくしちゃうね。

ネイティブでない人が、その言語を外から使うことで、問題の核心が外から射す光に照らされて明らかになることがあると思うんです。風通しが良くなって、隠していたものが見えてきて、ごまかすために言語を使っていた部分がごまかせなくなる。またはっきりしなかった部分をはっきりさせなければならなくなる。

『存在の耐えられない軽さ』は、この4作の中で一番気に入った一冊。すごい本だ。小説という枠を超えた、神様について、人間についての深遠な哲学でありながら、まぎれもなく愛の話。長い間発禁になっていて、たとえばクンデラチェコ出身でありこの本の原著はチェコ語だけれども、あとがきによると1998年の時点ではまだチェコで刊行されていないらしい。そして彼は亡命後チェコ国籍を剥奪されている。この傑作が、背景においても内容においても生身のチェコと肌と肌で触れ、血生臭く絡み合って生まれた、ということ。歴史に翻弄された内側の人間が描いた愛の話。

登場人物の心情や、彼らの人生がどのように変化しどのように終わるか、ということには大して価値を置かれていないのにも関わらず、「20世紀恋愛小説の最高傑作」という謳い文句は一寸たりとも間違っていないと思う。城山三郎の『そうか、もう君はいないのか』を読んで、何が起きたのか何を言ったのかということとは全く無関係に、骨太な文体の節々から滲み出てやまない愛の深さに打ちひしがれたことを思い出した。

たった一回限りの人生の、かぎりない軽さは、本当に耐えがたいのだろうか?

東欧を旅するたびに未だ消えない傷跡を改めて突きつけられ、アウシュヴィッツを訪れて生々しい残酷な歴史に絶望し、そんな状態で読んだ『夜と霧』。わたしの想像とは違って、トラウマになるような凄惨な記録や資料が綴られているわけではなく、フランクルが本書の中で語っているように、あくまでも心理学的観点から見た、人間についての本。

けれど、その淡々とした言葉の奥に片付けてしまうことのできない、彼らが背負わなければならなかった悲劇や、その中でこの本を書く、ということがどれほど辛く厳しく、そして覚悟のいることだったのかに思いを馳せて、想像するだけで泣きたくなる。

簡単な言葉でまとめたり、軽い言葉で感想を書くのが憚られるので、特に印象に残った部分をいくつか残しておく。

愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。愛により、愛のなかへと救われること!人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人に面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。

何千もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、とにかく生きて帰ったわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と。

収容所にいたすべての人びとは、わたしたちが苦しんだことを帳消しにするような幸せはこの世にはないことを知っていたし、またそんなことをこもごもに言いあったものだ。わたしたちは、幸せなど意に介さなかった。わたしたちを支え、わたしたちの苦悩と犠牲と死に意味をあたえることができるのは、幸せではなかった。にもかかわらず、不幸せへの心構えはほとんどできていなかった。

過去の喜びと、わたしたちの暗い日々を今なお照らしてくれる過去からの光について語った。わたしは詩人の言葉を引用した。

「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」

わたしたちが過去の充実した生活のなか、豊かな経験のなかで実現し、心の宝物としていることは、なにもだれも奪えないのだ。そして、わたしたちが経験したことだけではなく、わたしたちがしたことも、わたしたちが苦しんだことも、すべてはいつでも現実のなかへと救いあげられている。それらもいつかは過去のものになるのだが、まさに過去のなかで、永遠に保存されるのだ。

わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。 

 

本当は本人に伝えるべきだけれど、長々と感想を送るのは気を引けて「全部違って全部面白かった」と送ったら返事が来ません。本を貸したことなんて何とも思っていないだろうけれど、自分の時間を割いて本を選び、手渡してくれたことがわたしにはすごく特別だったので、ちゃんと感想を書いてみようと思った。ありがとう、嬉しかった。

勇敢な花の日記

3/24(日)

清々しい気持ちで、部屋をまるごと掃除した。お母さんと電話もした。あと3ヶ月やり残したことがないように、いったん落ち着いて目標や計画を立ててみたら?と言われて、その通りだと思いつつ何にも思いつかない自分にがっかりした。向上心が見当たらない。

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パンケーキを焦がしてしまって、おせんべいができた。

久しぶりの青空と日曜日だったので、突然思い立ってお散歩に出かけた。カメラを持って行かなかったので、携帯で写真を撮った。わたしが部屋にいてもいなくても、家族や子どもたちは公園で楽しそうに遊んでいることに安心した。

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すっぴんに眉毛とリップだけの状態だったけれど、いとこが19歳の誕生日にプレゼントしてくれた、ずっと欲しかったアネモネのピアスをつけていたので気分は無敵だった。

 

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ピンポイントでわたしに呼びかけてくる看板。

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おとぎ話に出てくるような、小さくて可愛い花が咲いていた。オオイヌフグリと言うらしい。花の名前を調べたくなる春。

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勇敢な鴨と、勇敢な花。石畳を生きる覚悟。わたしは残念ながらもう膝にきているよ。

春の日差しを想像して外に出たら、空気はピンと張り詰めて冷たかったけれど、たしかに春だった。わたしが感じている春は、空気の柔らかさや温度に左右されるものではないということを知った。くるりを聞いて歩いた。春だからね。揺るがない幸せがただほしいよね、そうだよね、と思いながら歩いた。

 

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まだ行ったことのなかったカフェの窓際で本を読んだ。カフェラテは苦くて半分くらいが泡だったけれど、美味しいショコラクロワッサンに出会えた。ひねくれた人間なので、大きいクロワッサンを見ると中のほとんどは空洞なんじゃないかと疑ってしまう。だけどその空洞にこそ胸ときめくのは事実で、チョココロネみたいにぎゅうぎゅうのショコラクロワッサンに出会ったら、きっとわたしは息苦しくなってしまうと思う。バターたっぷりでもちもちの皮、甘苦いチョコレート。それが好きだ。

帰りに万年筆の替芯と携帯のカードを買うつもりだったのに、またぼーっとしていてすっかり忘れてしまった。鍵がなくて焦っていたら、鍵穴に差しっぱなしだった。そろそろしっかりしなければ。

青空のもとに出かけるのと同じくらい、青空のうちに家に帰れることも嬉しいことだ。明るい気持ちで出かけて明るい気持ちで家に帰ることができる。

 

Netflixで『Blooklyn 99』のシーズン1を見進めて、スーパーで珍しく安かったお肉を焼いて食べた。オーストラリア人の友人たちが一同絶賛でおすすめしてくれた、何も考えずに見れて、めちゃくちゃ笑えるコメディ。海外のドラマを見る習慣がなかったけれど、楽しくてハマりそうだ。

冷凍庫に入っていたハーゲンダッツも食べた。夜のこの時間がたまらないね。どんな大きさのアイスでも、ささやかなスプーンですくうのが一番の贅沢。

テスト勉強にやる気が出ない日々の日記

3/22(金)

テスト前日。友達と話して、語学に対するやる気が高まっていたはずなのに、テスト勉強に向かう気持ちがまったく湧き上がってこない。

学校に行って、ベルイマンについての授業を受けて、去年公開された、『Amateurs』というスウェーデン映画を見た。スーパー誘致のために田舎町のPR動画を撮ろうと、街の職員や地元の高校生が奮闘するも、それぞれの現実にぶつかる話。コメディかと思ったら、だんだん幻想の下の本物のスウェーデンが顔を出してきて、ヒリヒリした痛みにやられてしまった。

アジアの貧しい地域のドキュメンタリーに映る人たちに許可は取っているのか?撮る側の傲慢や優越感があるんじゃないのか?移民はスウェーデン人になれないのか?そもそもスウェーデン人ってなんだ?わたしは誰なんだ?

高校生のカメラが映し出す生々しい現実。編集のない5時間の動画。その中だけで見ることのできた母の姿。生きづらいこの世界で生きていかなきゃいけないんだよなー。かっこよかったし、愛おしかった。

 

日本の友達から、「就活と忙殺で韻踏めるくらい忙しいよ〜」とメッセージが来て、わたしの中のラッパーが「それ本当に踏めてる?」とうるさい。全然ラップのことはわからないけれど、こっちに来てからキングスカップで9が出ることをいつだって恐れその度に死ぬ気で挑んでいるので過敏に反応するようになってしまっている。

英語のライムは日本語以上によくわからないし、語彙力的に惨敗なので、だいたい答えた単語の正誤は曖昧にスルーしてもらえがちだけれど、ラップはまったくわかっていないけれど常に根性だけでトライしている友達が、「box」「paradox」のあとに、堂々と「six!!」と答えて場の空気が凍ったことを思い出して何度でも笑ってしまう。

その友達にこれは韻を踏めているのか尋ねたところ、「多分踏めてないね。就活と銃殺ならいいんじゃん?」と物騒な返事が来た。そう言うわたしも、盗撮と忙殺と強奪しか思いつかない。もっと明るいのにしてほしい。牛カツの復活とか。

 

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歩いていたら、右側の建物の、膝くらいの高さの小窓に潜んでいた狂気。

 

3/23(土)

朝早く起きてみた。前日になかった危機感が当日は復活していることを祈っていたが、まったくそんなことはなかった。今日起こりうる最悪のことは、4時間のテスト中にお腹が空いてしまうことだなと思ったので、大量のパスタを茹でて食べた。

バスに乗ってテスト会場へ。つい2ヶ月前住んでいた場所に出かけていくのはちょっと変な感じだ。問題は難しかったけれど、最善を尽くしたし、とにかく終わった。

テストの最中もずっと頭がぼんやりしていて、こういうこともあるんだなーと思った。テスト前に勉強しようとあんまり思えないのも、こんなに日々ぼーっとしてしまうのも、生まれて初めてだった。そうはいっても一丁前にご褒美はほしいので、帰って残っていたチョコケーキを食べた。ちょっと頭がおかしかった時に夜ごはんにしようと思って焼いたケーキ。胸焼けして結局まだ食べきれていない。

 

部屋に大きな窓があるのは素晴らしいことだ。机に座ってゆったりとした気持ちで本を読みながら、自分の右半身が青から薄紫、そして藍色と染まっていくのを感じることができる。『存在の耐えられない軽さ』を読んだ。すごい本だ。胸焼けが治らなかったので、豆のスープを夜ごはんとしてちょっと飲んで、ぐっすり寝た。

HYUKOHを訪ねてベルリン旅行記

3/6(水)

朝一でベルリンに向け飛び立つ。コペンハーゲンからベルリンまでは45分で着く。どんな飛行機でも爆睡してしまうのに、ねむりきれないくらい一瞬だった。

二度目のベルリン!以前来たときに惚れ惚れしてしまった、こじんまりとした丁寧なお店が並ぶ、空気の澄んだ街で腹ごしらえ。

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おしゃれなカフェで、Milch Koffee と エッグベネディクトを頼んだ。分厚くてカリカリのパンだった。旅先での朝はいつだって特別なエッグベネディクトを探してしまう。素晴らしい朝ごはんに出会えた日は素晴らしい一日になると信じている。

夜のライブのチケットをドイツのサイトで買って、Eチケットが届いたので大丈夫だろうと高を括っていたら、ドイツ語で「A4の用紙に印刷しない限り無効」と書いてあることに直前に気付いて焦る。

海外ではどこで印刷できるの?!コンビニでも無理だし?!と途方に暮れていたら、コピーサービスなるお店を見つける。コンピュータと印刷機が並んでいて、カウンターで何をしたいのかを説明すると番号を割り振られ、そのコンピュータを使って印刷した後、カウンターで支払いをするというかなり原始的なシステム。ライブ前にちゃんと印刷できたことに安心しつつ、24時間灯りをともしてくれていた家の近くのコンビニのことや、お風呂上がり深夜にスウェットで通っていた22号館の無料コピー機のことを思い出していた。

トラムを乗り継いでホステルに着き、ドイツ人の友達ふたりと合流。12月の今生の別れを思い出して、また会えたことが嬉しくて、そしてちょっとくすぐったかった。真面目さとおちゃめさ、そして一人の世界と二人の世界をそれぞれちゃんと持っているキュートなふたりだ。

 

お昼ごはんを食べに、アレクサンダープラッツ付近の、SOY というベトナム料理のヴィーガンレストランに行った。ベトナム料理を、生まれて初めてドイツで食べるという巡り合わせ。ヨーロッパのアジア料理屋に行くと、アジアのどんな洒落たお店とも違う、まったく別の何かが模倣とは別の方法でアジアを表現しようとして混じり合った不思議な違和感にいつも驚かされる。机の濃い色の木の温もりに触れて、わたしはベトナムに行ったことがないし、何か近い記憶があるわけでもないのになぜか懐かしいと思った。

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ランチで選べる付け合わせ。春巻きのことはスプリングロール、生春巻きのことはサマーロールを呼ぶと知った。サマーロール。中身をぎっしり詰める丹念さが美しいと思った。甘いピーナッツにつけて食べる。スウェーデン料理もそうだけれど、ごはんに甘い物をつけるという感覚がよくわからない。

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初めて食べたフォーは、素朴よりも優しい味をしていた。惜しみなくのせられた、日本で食べたきりの豆腐や野菜や、ヨーロッパのものとは明らかに違う出汁が胸に沁みた。沁みながら、むしゃむしゃ食べた。

ライブ会場が開くまで一時間半ほど寒空の下凍えながら待った。かなり待った。8時にライブが始まると聞いていたけれど、それは間違っていたみたいで8時半に彼らは登場した。かなり疲れてしまっていたけれど、ああいうライブハウスのライブに行ったのは数年ぶりで、始まりと同時に自分が高揚していくのを感じていた。

 

HYUKOH  24: How to find true love and happiness  in Berlin

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MCはほとんどなくて、ボーカルのヒョクが一言二言、英語とドイツ語で挨拶をして、他はずっと音楽に浸る時間だった。一時間くらいの短いライブだったけれど、ひさしぶりに生の音のお腹の奥に響く感じとか、自分とアーティストと、そして他のお客さんと同じ一つの空間にいるんだという実感に、やっぱり音楽っていいいなぁと改めて感動してしまった。

わたしは彼らの音楽が好きだけど、韓国語はわからないし歌詞の意味も把握できていない。裏返せば、彼らが何を言っているのか何を歌っているのかわからないのに彼らの音楽が好きだと思っている。お客さんはドイツ人もヨーロッパ系の人も、そして驚いたけれどわざわざ韓国から来ている人も多くて、言葉も文化も違うけれど、このベルリンの夜にみんなが一つの方向を向いて一緒に歌ったり聞き惚れたりして、みんなが一つのグループが生み出す音楽を好きだと思っていて、これって多分すごいことだ。

彼の芸術みたいな声と彼らの音楽に包まれながら、たとえばこの歌の歌詞が日本語だったり、彼らが日本に生まれていたら、あるいはまったく別の国に生まれていたりしたら、どうなっていたんだろうなーということを考えていた。そんなことを考えるのはナンセンスかもしれないけれど、彼らの霞の先に消えそうな透明感や、それでいて芯のあるエモーショナルな音はどこから生まれているのか、知りたいと思った。

TOMBOYを生で聴けて嬉しかった。Paul は聴けなかったけれど相変わらず好きな曲。みんなで歌って、ちょっと間違えて、みんなで笑った LOVE YA! もよかったな。


HYUKOH(혁오) - TOMBOY(톰보이 뮤직비디오) M/V


HYUKOH(혁오) - LOVE YA! M/V

日本でもツアーやったり、ネバヤンと対バンしたりしているらしい。あべさんがヒョクとプライベートで遊んで、中目黒の川沿いで「LOVE YA!」を聞かせてもらって「衝撃的だった」と言っているインタビュー記事がわたしには衝撃的だった。映画のワンシーンみたいだ。すごい音楽だ、と思う。静けさの中でも激しさの中でも泣きたくなる。

 

3/7(木)

きのうは体力と感受性が爆発寸前で、目を閉じた瞬間に意識が落ちていった。ゆっくり寝て、チェックアウトして、朝ごはん。タイトになりがちな旅のスケジュールに朝ごはんの時間を組み込んでくれる人のことが一人残らず好きだ。

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Tempo box というカフェで、Milch Koffee と、Sweer Breakfastというセットを頼んだ。フルーツサラダと、バニラヨーグルトと、ヌテラ付きワッフル。小学生で出会ってから、ヌテラへの愛は霞んだことがない。フルーツが軒並みかたくて甘くなくてちょっと悲しかった。

そこから、マジック博物館と科学館と迷ったけれど協議の結果、スパイ博物館へ行くことになった。スパイの博物館?!という感じだったけれど、世界中のスパイの歴史や、スパイのための道具や展示がたくさんある、めちゃくちゃに楽しい場所だった。幼い頃『スパイキッズ』が大好きで何度も見て、今でも熱心に『ミッションインポッシブル』を追っているわたしは完全にテンションが上がってしまった。

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『イミテーションゲーム』を見てから、恐れつつ密かに興味を持っていたソ連エニグマや、映画の中なんじゃないかと思ってしまうような盗撮用コンタクトレンズ、パイプの銃、トランプの地図など、嘘みたいな本物に思わずテンションが上がってしまった。とはいえ、様々な血生臭い歴史も学べる展示で、見応えがあった。現実は小説よりも奇なり。

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赤いオーケストラなんてなかったという説明。

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ブリッジ・オブ・スパイ』で映画になった、捕虜交換のスペクタクル模型。

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誰もが一度は憧れるであろう、赤外線トラップを潜り抜けるアトラクションもあった。挑戦したものの初心者用のステージもなかなかに難しくて、スパイには到底なれないであろう鈍臭さを見事に見せつけてしまった。

そしてふたりと別れた。こっちに来てからの出会いと別れはいつも簡単で、また会えるといいなと祈ることしかできないけれど、でも本当にこのふたりと出会って仲良くなれてラッキーだった。

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飛行機の時間があったので行かなければならなかったけれど、やはりドイツに来てビールとフランクフルトを食べずに帰ることはできない!という使命感に燃え、アレクサンダープラッツ駅の中に入っている、curry wurst express に駆け込む。500ml の瓶ビールとカリーヴレストにパン。一人4.5ユーロで買える幸福。その名も perfect duo。

うつくしいことば

3/19(火)

スウェーデン語の試験があった。友達たちと励まし合いながら臨んだドキドキの口述試験は、和やかな雰囲気で無事に終わった。オランダ人の女の子が「長距離バス内のトイレで shit することは禁止されているのよ」と突然真顔で語り出して笑ってしまった。

わたしが回答を準備していた質問が偶然本当に出題されて、しかもその回答者としてわたしが指名されたことに対して、試験の後、その友達にペラペラの英語で言われた 「You're super fuckin' lucky」という言葉が滑らかで語呂が良くて頭から離れない。ユーアー・スーパーファッキンラッキー。是非ともわたしの暮石に刻んでほしい、と書こうと思ったが、被害妄想が激しいタイプなので、あと3ヶ月の留学の間にテロか銃撃か何らかに巻き込まれ、死んだ後このブログが見つかり、「ブログに残された『You're super fuckin' luckyと暮石に刻んでほしい』は遺書と見なされるか否か」という皮肉な論争になったらどうしよう、やめてほしい、というところまで想像したのでやめておきます。

 

3/20(水)

学校へ行く。比較的いつも楽しみにしている、Gastronomy の授業を受ける。出席がないレクチャーの日だからか、10人ほどしか生徒がいなかった。「食べる、ということは学問の場において常に軽視され見下されてきたが、もしもプラトンが食に対して関心を持っていたならば、Gastronomy は現代の学問において重要な主題になっていただろう」と先生が熱弁していた。

帰り道に見かけたカップルが、彼女は赤信号を無視して向こう側に渡り、彼氏は目だけでそれを諌めて、その細い道のこちら側に立ち、ふたり見つめ合いながら静かに青信号に変わるのを待っていた。青信号に変わった途端彼氏は走り出し、彼女も走り出し、細い歩道のど真ん中で彼氏が彼女を捕まえて抱きしめ合うちょうどその瞬間にふたりの横を通過した。歩道の隣の芝生に、なぜかカモが2羽座っていて、二人が抱き合うロマンチック最高潮の瞬間に彼女が「カモ、面白いね」と呟いたのを聞いた。

 

3/21(木)

土曜日の筆記試験のため、家にこもって今日も勉強。最近ずーっと家にいる抜け殻だ。何にも考えてないまま24時間が早送り過ぎていくような気がする。ただでさえ猫背で姿勢も悪いのに、勉強していると下ばかり向いて目はひとえに、顎はたるみ、首は痛くなる。最悪だ。テストが終わったら上を向いてずっと寝てたい。

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わたしの住んでいるところは、部屋中の電気を最大限につけても暗い。電気の数と設置位置を考えると仕方がないことだし、最初に引っ越してきた時からわかっていたことだけれど、最近電球が弱まって一段と暗くなってきた。気付かないふりをしようと努めて早2ヶ月、いよいよ暗い。

電球、変えなきゃなぁと思うものの、面倒臭い。まず椅子を用意して電球を外し、型を確認して、電気屋さんに行って、その型を見つけ、さらにその中でも価格帯や色の様々なものの中から長時間付き合うであろう一つを選び、家に帰り、また椅子に登って付け替える一連の作業。考えるだけで疲れ果てるし、そもそも電球の型番がどこに書いてあって、何を見ればいいのかもよく分からない。

思えばわたしは人生で一度も、自分で電球を変えたことがない。東京に住んでいた3年間で一度だけお風呂の電球が切れたことがあったけれど、東京に両親が来てくれた時に父親が変えてくれた。それは今思うと本当にありがたいことだった。

今わたしのために電球を変えてくれる人はいないし、一人異国でよくわからない電球とかいうもののために奔走しなければならない。生きるって、切れた電球を変えるってことだったんだと気付く。一人で生きると決めたなら、一人で電球を変え続ける覚悟も持ち合わせなければならない。一人で椅子に登って電球を外し、一人で電気屋に行って一人で選んで一人でつけかえる。せめて、椅子を支えてくれる人が欲しいよ。

 

あくる日、フィンランド人の友達がスープを分けてくれるということで、夜遊びに行った。ラップランド出身で年末に実家に遊びに行かせてもらった、日本語も勉強しているめちゃくちゃキュートで心の美しい人だ。

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英語で話すと、わたしの言いたいことや伝えたいことは確かに心の中にあるのに、それを取り出して、言葉に落とし込んだ瞬間まったく違うものになってしまうことが悔しい。ある程度同じような意味を持っていても、それは限られたことを限られた語彙と文法で便宜上伝えているだけで、もうわたしの心にあった時とは全然違う形をしていて、自分の言葉じゃないように思える、そんな自分の英語力が悔しい、という話をした。

彼女はアメリカに住んでいたことがあって、英語をペラペラに話すけれど、それでも「英語を話す時は、言葉が頭から出てくる。フィンランド語を話す時は、言葉が心から出てくる」と言っていて、わたしがいつも感じていた違和感を綺麗な英語で目の前にすっと差し出されたことに驚いて最初何も言えなかった。

ヨーロッパの人(特に若者)は大抵英語を話せるからそれ以外の言語を意欲的に学ぼうとする人はあまり多くないけれど、いつだって世界にはたくさんのドアがあって、言語がそれを開いてくれる。フィンランド語という核があって、それだけでも十分かもしれないけれど、その周りにはたくさんの知識や他の国の言葉があって、そのドアを開けた方がカラフルだ。だから生きている限り、どんなに少しであっても、できる限り新たな言語に挑戦し続けたい、と言っていて、わたしはその彼女の生きる姿勢みたいなものに静かに感動してそして打ちひしがれていた。

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新しい言語を学ぶことはいつだって美しい。その先には、まだ知らないたくさんの物語がある。

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自分のツイッターを見返したら、ちょうど8ヶ月ほど前、英語に悪戦苦闘していた当時のわたしが同じようなことを呟いていた。今はスウェーデン語にもがいてるぞーあの頃の自分よ。落ち込んで、打ちひしがれて嫌になって、だけどその果てしない素晴らしさに気付いて、また走り出す。そんなことの繰り返しだよなー。今日話せてよかった。