きみに贈る読書感想文

留学先が一緒の友達に、勇気を出して本を貸してもらった。日本の本を読みたいのはもちろん、前々からすごい人だと思っていたので、どんな本を読んでいるのか知りたいと思った。

「なんでもいいからおすすめの本を貸してほしい」というのは、本当に難しい注文だと思う。誰の、どんなジャンルの、どの本を、何冊選ぶのか。ある程度相手の趣味や、貸してほしいと言われているジャンルが絞られていればまだいいけれど、「なんでもいい」というのは究極の難問だ。わたしだったら、これを選んだらどう思われるんだろう…趣味悪くないかな…これ渡すのは恥ずかしいな…こんなに多いと押し付けがましいよな…と、過剰な自意識に苛まれて一週間くらい悩みそう。

『キングダム』と『進撃の巨人』の新刊が出るたびに貸してくれていた大好きなバイト先の社員さんに、おすすめですと言って藤岡拓太郎さんの『夏がとまらない』を貸したら、想像していた反応の斜め下でへこんだことを思い出す。

一番いいのは、「最近何読んだ?」「◯◯だよ〜面白かった」「え〜いいな〜読みたい。借りてもいい?」「もちろん!」というこの超王道かつ究極にナチュラルな流れ。本当にいいと思った本をタイムリーで貸せるし貸してもらえるし、少なくとも自意識の空振りは避けられる。この流れをお互いに踏襲し続けられる友達は偉大だ。

 

人に本を貸したり、借りたり、おすすめを薦め合ったり、人の本棚を見るという行為がそもそも大好きで、雑誌のあの人の本棚特集とか、ブログに写り込んだ本棚とか、趣味悪く隅々まで拡大してチェックしてしまう。SPBSでやったロロ展の三浦さんの本棚たのしかったなー。

けれどわたしの好きの割合は、多分薦めるのが好き2割に薦めてもらうのが好き8割くらいで、自分が同じように頼まれると困るくせに、頼む時のわたしは無慈悲なキラッキラの目でときめきに満ち溢れて「なんでもいいよ!おすすめ貸してほしい!」と食い気味に言ってしまう。

 

彼も同じように悩んだのかもしれないし、もしくはわたしのように無駄にひねくれてなんていなくて、素直に面白かった本を選んでくれたのかもしれないけれど、寒い中自転車を漕いで待ち合わせ場所に来てくれて、手渡されたのは、この4冊だった。 

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

存在の耐えられない軽さ (集英社文庫)

 
もものかんづめ (集英社文庫)

もものかんづめ (集英社文庫)

 
夜と霧 新版

夜と霧 新版

 

この本の並びを見た時、不覚にも一瞬で恋に落ちそうになってしまった。わたしが人のことをちゃんと好きになれる人間なら多分好きになってしまっていたと思う。(相手には当たり前に素敵な彼女がいることが後に明らかになったけれど)

どれも読みたいと思っていたけれど、なんだかんだまだ読めていない本だった。特に『夜と霧』は、向き合うのが怖くてためらっている自分がいた。感動したから、と言って『夜と霧』を人に手渡すことができる、そしてその覚悟がある人は誠実だと思う。そしてさくらももこのエッセイを一冊挟んでくれるおちゃめさ。

 

『かかとを失くして』は、初めての多和田作品。文学的な情緒を噛み締められる人間になりたいけれど、第一印象は「一文ながっ」でした。不思議な文体に不思議な世界観。外国語を左から右に日本語に翻訳していくのを目で追っている感覚。

素直な感想は「よくわかんなかった」だけど、それ以上にわかりたいという気持ちがあるので、他の作品も読んでみたい。ネットで読んだインタビューがめちゃくちゃ面白かったし、視点が鋭くて深くて魅力的な人だと思った。言語という不確かなものへの信頼と肯定。絵画や歴史や神話、散りばめられた要素が物語の中で繋がっていく。わくわくしちゃうね。

ネイティブでない人が、その言語を外から使うことで、問題の核心が外から射す光に照らされて明らかになることがあると思うんです。風通しが良くなって、隠していたものが見えてきて、ごまかすために言語を使っていた部分がごまかせなくなる。またはっきりしなかった部分をはっきりさせなければならなくなる。

『存在の耐えられない軽さ』は、この4作の中で一番気に入った一冊。すごい本だ。小説という枠を超えた、神様について、人間についての深遠な哲学でありながら、まぎれもなく愛の話。長い間発禁になっていて、たとえばクンデラチェコ出身でありこの本の原著はチェコ語だけれども、あとがきによると1998年の時点ではまだチェコで刊行されていないらしい。そして彼は亡命後チェコ国籍を剥奪されている。この傑作が、背景においても内容においても生身のチェコと肌と肌で触れ、血生臭く絡み合って生まれた、ということ。歴史に翻弄された内側の人間が描いた愛の話。

登場人物の心情や、彼らの人生がどのように変化しどのように終わるか、ということには大して価値を置かれていないのにも関わらず、「20世紀恋愛小説の最高傑作」という謳い文句は一寸たりとも間違っていないと思う。城山三郎の『そうか、もう君はいないのか』を読んで、何が起きたのか何を言ったのかということとは全く無関係に、骨太な文体の節々から滲み出てやまない愛の深さに打ちひしがれたことを思い出した。

たった一回限りの人生の、かぎりない軽さは、本当に耐えがたいのだろうか?

東欧を旅するたびに未だ消えない傷跡を改めて突きつけられ、アウシュヴィッツを訪れて生々しい残酷な歴史に絶望し、そんな状態で読んだ『夜と霧』。わたしの想像とは違って、トラウマになるような凄惨な記録や資料が綴られているわけではなく、フランクルが本書の中で語っているように、あくまでも心理学的観点から見た、人間についての本。

けれど、その淡々とした言葉の奥に片付けてしまうことのできない、彼らが背負わなければならなかった悲劇や、その中でこの本を書く、ということがどれほど辛く厳しく、そして覚悟のいることだったのかに思いを馳せて、想像するだけで泣きたくなる。

簡単な言葉でまとめたり、軽い言葉で感想を書くのが憚られるので、特に印象に残った部分をいくつか残しておく。

愛は人が人として到達できる究極にして最高のものだ、という真実。今わたしは、人間が詩や思想や信仰をつうじて表明すべきこととしてきた、究極にして最高のことの意味を会得した。愛により、愛のなかへと救われること!人は、この世にもはやなにも残されていなくても、心の奥底で愛する人に面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれるということを、わたしは理解したのだ。

何千もの幸運な偶然によって、あるいはお望みなら神の奇跡によってと言ってもいいが、とにかく生きて帰ったわたしたちは、みなそのことを知っている。わたしたちはためらわずに言うことができる。いい人は帰ってこなかった、と。

収容所にいたすべての人びとは、わたしたちが苦しんだことを帳消しにするような幸せはこの世にはないことを知っていたし、またそんなことをこもごもに言いあったものだ。わたしたちは、幸せなど意に介さなかった。わたしたちを支え、わたしたちの苦悩と犠牲と死に意味をあたえることができるのは、幸せではなかった。にもかかわらず、不幸せへの心構えはほとんどできていなかった。

過去の喜びと、わたしたちの暗い日々を今なお照らしてくれる過去からの光について語った。わたしは詩人の言葉を引用した。

「あなたが経験したことは、この世のどんな力も奪えない」

わたしたちが過去の充実した生活のなか、豊かな経験のなかで実現し、心の宝物としていることは、なにもだれも奪えないのだ。そして、わたしたちが経験したことだけではなく、わたしたちがしたことも、わたしたちが苦しんだことも、すべてはいつでも現実のなかへと救いあげられている。それらもいつかは過去のものになるのだが、まさに過去のなかで、永遠に保存されるのだ。

わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった「人間」を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。 

 

本当は本人に伝えるべきだけれど、長々と感想を送るのは気を引けて「全部違って全部面白かった」と送ったら返事が来ません。本を貸したことなんて何とも思っていないだろうけれど、自分の時間を割いて本を選び、手渡してくれたことがわたしにはすごく特別だったので、ちゃんと感想を書いてみようと思った。ありがとう、嬉しかった。