4/1(月)
いつものごとく旅の疲れで抜け殻になってしまったので、一日中家にこもって何もしなかった。今日は空が信じられないほど青くて、春が本気でこちらに向かってきているという感じがする。
朝起きたら、新元号が決まっていた。わたしの名前はひらがなだし(漢字だったら自分にも関係があると思っているあたりの自意識)、新元号自体にもそこまで興味はなかったのだけれど、前日ねむる前に自分の名前に漢字を当てるとめちゃくちゃ元号っぽいことに突然気付き、「これは来る」という謎の確信で謎にパニクっていた。一生いじられるじゃん…これから何回「え!元号と同じお名前なんですね〜〜めずらしい!もしかして元号からお名前つけられたんですか?笑」いやそんなわけあるかとっくに生まれてたわ馬鹿、みたいなしょうもないやりとりを繰り返すんだろう…まさかこんなことになるなんて…という絶望の中眠りについたけれど、朝起きたら超杞憂だった。えへへ。
今日唯一生産的だったのは、ベルヴェデーレで買ったマグネットを貼ったことくらい。特にマグネット好きなわけはないが、旅先で気に入ったものがあると細々と集めている。
フィンランドで買った魚とムーミン。バルセロナで買ったガウディのモザイク風サンタさん。ダブリンで買ったおじさんと羊。そして、夢だったクリムトの絵たち。
4/2(火)
今日も嘘みたいな春の日。帰る前に一人旅をしてみたいと思い立ち、ヨーテボリとオスロへのバスや電車、宿を予約した。電車旅の予定だったけれど、安いチケットはどれもバスなのでほぼバス旅。正しいバスに乗るということが苦手なので、すごくドキドキしている。
気力が復活して暇を持て余したので、隣町にお出かけ。バスから見上げる、儚げな薄い水色の春の空が、フィルムカメラで撮った風景に似ていた。初めてここに来た日、デンマークからスウェーデンに向かう電車の窓からスウェーデンを見て、「お好み焼きみたいだ」と思った。液体が地面に広がってそのまま固まったみたいに、ただただ平らな地面が広がる風景は、山に囲まれた場所で生まれたわたしにとって異様でさえあった。空はどこまでも上に続くけれど、山の背中に消えることなく、ただひたすら下にも伸びていくということを知った。そして、下に行くほど白く淡くなるのだ。映画のスクリーンの中にいるような、ゲームで作った街の中にいるような不思議な感覚がして、天幕説を思いついた人の気持ちがわかるような気がした。映画館みたいな街だ。
HOLY SALAD という神々しい名前のサラダ専門店で、アジアンシーザーという名前のサラダを食べた。生姜味の人参、辛すぎるパプリカ、枝豆、パクチー、謎のハバネロライム・ドレッシングという、あまりにもパッとしないサラダにちょっと萎えてしまったが、海老と春雨に救われた。美味しそうなチーズの名前を聞いたらゴーダチーズだと言われたので、これはいい!とトッピングしてみたら、ゴートチーズの聞き間違えだった。あの獣臭にすっかりやられてしまい、それが決め手でノックアウト。
帰り道窓の外を眺めていたら、一瞬桜みたいな何かの残像が見えて、慌てて後ろの方を振り返ったけれどもう見えなくなっていた。こんな北の国の、家すらないような田園風景の中に一人静かに立ち続ける桜がいるとしたら、それはすごく美しいと思った。それはわたしの脳内のイメージだけれど、それでも本当に美しいと思った。
この日の日記を見返したら、「最近時間が経つのがめちゃくちゃ早いから、気をつけなきゃいけない」と書いてあった。春に気をつけなきゃいけない。
4/3(水)
午後は授業で、あとは1日糖尿病疑惑に絶望して使い物にならなかった。自分の両方の顔の側面に、ほくろで北斗七星ができることを発見して歓喜していた。
4/4(木)
念願のハイキューの最新刊をKindleで購入した。最近忙しいのでひと段落ついたご褒美のために取っておいてある。
健康のために、バナナとシリアルとヨーグルトを朝ごはんに食べて、お昼ご飯にも夜ご飯にもサラダを食べた。突然のヘルシー生活。バランスよく野菜を摂れるって才能だと思う。放っておくと、一つの食べ物を一週間連続で食べられてしまう人間なので、意識的に満遍なく栄養を取るということが本当に苦手だ。
偶然兄弟と電話した。なんでそんな話になったのか忘れたが、兄直伝の女の子を口説くコツは、相手を軽くディスって下げることで、相対的に自分をあげることらしくてセコくて笑っちゃった。女の子は自分より下だと思う人には惹かれないから、らしい。それはよくないよと諌めたら、相手が気にしないような、どうでもいいことをいじるんだ、その塩梅が重要なんだ、と言うので、たとえば?と聞いたら「自分よりごはんを食べるのが遅かったら「牛かよ〜」って言うとか」とのこと。なにそれ?!
4/5(金)
午後から授業。道中の至るところで花が咲き始めていて、そんなところに花があったのか!これはただの木じゃなかったのか!と、毎日新鮮に驚き続けている。
北欧のアート映画についての講義で、『テルマ』を見た。監督は、あのラース・フォン・トリアーの甥っ子のヨンキム・トリアーで、彼は日本の大ファンらしい。先生が毎週『ハウス・ジャック・ビルト』を異様に勧めてくるのだけれど、人に勧めるものではないのでは感が否めない。わたしは絶対に見ない。怖いので。
『テルマ』は、同性愛や宗教、家族、超能力など多様な要素を絡めた、ホラーでありSFでありミステリーで、一度では飲み込めきれないくらいの情報量だった。色んな要素が絡んでいて、どの観点から見ても興味深い映画。音楽も映像もすごく良くて、アート映画に括られるのも納得だった。めちゃくちゃネタバレですが、冒頭の、少女が殺されそうになる息を呑むような美しい氷の湖が、父と弟二人の死に場所になるという対比と、皮肉にもその二つの画が恐ろしいくらい美しいことに鳥肌がたった。美しさと狂気がいかに一体であるかということを証明した映像。あまりにも美しいものは畏怖さえ感じられ、そして時に狂気には美が宿り、それが『テルマ』であり『ハウス・ジャック・ビルト』なのだと思う。見てないけど。
授業で少しだけ見た『リリア・フォーエバー』の、走るシーンの映像と音楽の組み合わせが良くて、めちゃくちゃ可哀想な鬱映画らしいけれど、いつか気力がある時に見てみたいと思う。
例の男の子に借りていた本を無事に返したのだけど、弾まない世間話のあと、チラッと時計を見て「じゃあ俺この後予定あるから…」と無表情で言われ、わたしのセンチメンタルな乙女心が音を立てて割れた。
そういえば、帰り道に寄ったスーパーの自動ドアから二羽の鴨が出てきて、どうしようもなく愛おしくなってしまった。夜適当に作った野菜炒めが美味しくて、野菜炒めと鴨に救われた。
4/6(土)
友達とルイジアナ美術館に行った。ひとりでいるのも好きだけれど、遠くの景色が白く霞んで見える春に、わたし以外の誰かもこの景色が同じように霞んで見えていて、それを一緒に見て美しいと話し合えることが素晴らしいと思った。この世には、わたしの知らない美しい花や季節が無数にあるということが嬉しくも寂しくもある。目を細めて泣きたくなるような季節だ。桜がなくても春は美しいということを知った。
ルイジアナ美術館は、設計と自然の完璧なバランスの上にひっそりと佇む、夢みたいな場所だ。人生で初めて、海に太陽がチリチリと反射して、星の粉を撒いたみたいに、波が細かくきらめき合う瞬間を見た。おとぎ話みたいな景色に心から興奮して写真を撮りまくったけれど、もちろんカメラには映らなかった。空との境界がない海は、天国なんじゃないかと疑ってしまいそうな儚さで、美しすぎて遠かった。
美術館内も、白と木を基調とした洗練された空間だ。突然現れる庭の宇宙や、壁一面がガラス張りで、それ自体が一枚の風景画として見える池など、新鮮な小さな驚きに魅せられた。
Liu Xiadongさんの、グリーンランドに旅した時の絵の特別展示が一番好きだった。絵の具の水墨画。一色と一本で映し出される立体感。壮大な自然の息遣いと、そこに生きる人々の瞬間を鮮やかに描き切っていた。
草間彌生の常設展示の部屋もあった。一度に入れる人数制限がある。チームラボみたいで驚いたけれど、言われてみれば確かに水玉だ。
素晴らしい一日の終わりに、アプリ内広告で閉じるボタンを押すつもりが、間違って触ってしまった購入ボタンのせいで勝手に1800円も課金されて泣いた。執念で韓国のアプリ会社のウェブサイトのリクルート用と見られるコンタクトにもAppleにもメールした。
4/7(日)
来週金曜までのレポートに取り掛かり始める。水曜に旅立ってしまうのに1400wordsは書かなければいけないので、全然時間がない。お母さんに電話をかけたら、嬉しそうな声で嬉しかった。
最近の一連の出来事を話して、「お母さんとあなたの心配事の、98%は起こらないから大丈夫だよ」と言われて、大きな悩みも小さな悩みもなんだか全部吹き飛んで、一瞬で浄化された。わたしの心配性は、母に似ている。けれど母は「なるようになるんだから、もう心配はしないことにしたの!」と吹っ切れたように言っていて、力強いなあと感心した。
ロロの『はなればなれたち』のチケットを無事確保してホクホクしている。
カフェでホットチョコレートを飲んだ後に『風立ちぬ』を見て、ガツンと打ちのめされ、帰り道「すごいなあ・・・すごいなあ・・・」ばかり言って使い物にならず友達に引かれた。本当にいい映画だった。
どんどん日の暮れが遅くなって、最近は20時すぎまで明るい。この冬は長く暗く厳しいものだった。今思えばちょっと鬱状態でもあって、毎日10時間以上寝ないと体調が悪く、朝は気休めのようにビタミン剤を飲んで、ギリギリの気力で這いつくばっていた。今、美しい花がそこかしこに咲き誇り、空は澄んで、日を追うごとに世界が明るくなっていくことを実感している。明日はもっとたくさんの花が咲いて、日はもう少し長くわたしたちを照らすだろう。明日が今日よりも素晴らしいという確信以上に素晴らしいものがあるだろうか。こんなにも美しい春に出会えてよかった。