まっすぐなものに弱い日記

5/20(月)

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スープ屋さんでランチした。愛想のいいキュートなおじさんが一人で切り盛りしている、時間がゆったり流れる素敵なお店。体中から力が抜けてふにゃふにゃになっちゃうような優しいきのこのスープを食べた。

 

5/21(火)

一日中試験に向けて勉強した。グループで受ける口述試験で、テーマにもとづく会話のストーリーラインを考えて各々暗記してくるという唯一かつ不毛な手法で挑むことになった。久しぶりにこんなに勉強して、知らない人とグループワークして、仕切ったり意見出したりするのに疲れ果て、信じられないくらいの頭痛に苛まれながら就寝。

 

5/22(水)

今日も一日勉強。そろそろ禿げちゃうんじゃないかな。夜、口述試験を受けた。わたしの名前を覚えていない説を秘かに唱えていた先生が、最後の最後まで本当にわたしのことを覚えておらず、違う人の名前で呼ばれて、訂正するのはもう5回目くらいで、困った顔されたけどわたしの方が泣きたかった。

グループワークとかグループで受ける試験が本当に苦手で、目立とうとするのも人のタイミング取るのも嫌で萎縮した結果、発言の機会を逃し、最後に名指しで指されたのが「ずっと続く本物の愛はあると思う?」という突然ハードル5段飛ばしくらいの質問でフリーズした。そんなこと絶対日本の試験では聞かれないよなー。

 

5/23(木)

冬は日光を浴びなさすぎて軽い鬱になってしまい、毎日10時間ねむらないと気持ち悪くなってしまった。夜が来ないような楽園の夏が来て、日々ハッピーな気持ちでいたけれど、それも躁状態のようなものだったらしく、また毎日10時間睡眠生活が始まった。

忘れ物をして、友達に自転車を借りて家に戻った。信じられないけれど半年ぶりくらいに自転車に乗った。チャリ運が皆無で、盗まれたり毎日パンクしたり自転車屋と戦ったり、いろいろなことがあったなーなんて思い出しながら風を感じていた。

極寒の豪雨の中パンクしたチャリで坂を何キロも登り続けなければならなかった夜の、感覚のない太ももとか、ぼろぼろのマスカラとか、雨に混じった涙とか、今でも鮮明に覚えていて、これまでの人生で一番死に物狂いな自分に出会えた。

夜はポットラックパーティの予定でずっと待っていたけれど、4人中2人が来られなくなって、フランス人の女の子とふたりで明るい夜中にハンバーガーを貪った。

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ふたりのためだけに沈みゆく夕日を見た。

 

5/24(金)

ずっと放置していた因縁の自転車を売った。修理して転売するらしく、自転車で来て、わたしの自転車を片手で支えながら、また自転車で帰っていった。今日も一日勉強した。途中で集中力がぶっつり切れてネットサーフィンしていたけれど、とうとう明日が本番。

 

5/25(土)

朝から正真正銘留学最後の試験を受けた。スウェーデンの試験は、ボリュームがあるからというのもあるけれど。試験時間が4時間とか5時間とかに設定されている。

だから「もう時間がない!とりあえず適当に埋めよう!」とならずに、お菓子やランチを食べたりしながら、最後まで気の済むまで考え抜ける。どこまで追いかけるかも、どこで目処をつけるかも自由。そこが好きだ。わからない問題もあったけれど、なんとかやりきって満足!

 

スウェーデン人の友達と合流して、ランチを食べて、『名探偵ピカチュウ』を見た。前の席の小さな子どもがピカチュウのぬいぐるみと一緒に観賞していて、その横は真剣な眼差しでスクリーンを見つめるポケモンファン男性3人組で、ほっこり空間だった。エメラルドからパール、ホワイトへと辿りながらポケモンにどっぷり浸かっていた小学生時代を思い出した。

 

5/26(日)

カフェで、日本から手紙をくれた友達に返事を書いた。地球の裏側にいようとリアルタイムで連絡が取れる時代に、わざわざ手紙を送ろうと思う心と、それがわたしに向けられているということがどうしようもなく嬉しい。返事を書くの、くすぐったいけど楽しくて、いつ届くかなとか、どう思うかなとか、そういうことを考える時間自体をもらっているんだと思った。

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アフォガードを頼んだら、素敵な器に入ったバニラアイスが運ばれてきてときめいていると、店員さんがスッときて無言でエスプレッソをじゃーっとかけて去っていった。アフォガードの楽しみの半分は、自分でエスプレッソをかけることにあると思っている。

 


菅田将暉 『まちがいさがし』

ドラマを見られない環境なので今更知ったのだけれど、菅田将暉の『まちがいさがし』があまりにも素晴らしくて、心がグラグラ揺さぶられて、呆然と聴き込んでいた日。

間違い探しの間違いの方に生まれてきたような気でいたけど

歌詞だけを見れば「菅田将暉は絶対に正解の方じゃん…」って思う気がするけど、この人のこの声で歌われるこの一節だけで、ああこの人も一緒だ、不安でも苦しくても悔しくて仕方がない夜でも、一人で立って一人で生きてもがいてきたんだって、心の一番深いところで納得させられる。この音楽を聞く何万人と同じように、だけどまったく違う体と心と人生を背負いながら、これはわたしだ、と思った。

四畳半の個室で「自分は間違い探しの間違いの絵の方に生まれたのかもしれない、でもだからこそ今目の前の人との出会いがあって・・・」と。米津くんからこの曲の意図を聞いた時に生きている中で何となく不安だった自分にしかわからない気持ちに名前をもらったような気がしました。

そんなことを考えていたら、公式サイトで彼自身がこう発言していて、思っていた通りのことを言っていたことに驚いたし、その思いや彼が伝えたかった祈りを、まっすぐに届けることができる表現力に脱帽した。

この歌をおすすめしてくれたスウェーデン人の友達が「彼は一音一音はっきり発音するから、聞き取りやすい」と言っていた。囁くのでも叫ぶのでもなく、ただ目の前に差し出される歌声は、信じられないくらいにすっと胸に切り込んできて、逃げも隠れもできずに感じたまま震えることしかできない。多分わたしたちは、てらいのないまっすぐさとか、力を誇示していない力強さとか、そういう本当の意味で強いものに弱いのだと思う。そういうものに心底憧れている。

 

5/27(月)〜6/1(土)

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集大成の旅行に出かけた。ポルトリスボン、そしてマドリードへ。30度を超える灼けるような暑さに、文字通りくらくらしていた。強すぎる日差しに太刀打ちできず、サングラスを買えない自意識を抱えて、目を瞑って歩いた。友達がポルトガルを歩きながら「ピカピカの街だね」と言っていた。あら素敵。

坂や階段が多くて大変だったけれど、街はかわいくて、食べ物は美味しくて、生のオレンジジュースやサングリアをたらふく飲んで、優しい人にたくさん出会えて、集大成にふさわしい素晴らしい旅だった。

 

6/2(日)

菜の花畑と街の写真を撮りにバスに乗って隣町に出かけたけれど、信じられないくらい美しかった一面の黄色は、ほんの少しの間に一面の緑に変わってしまっていた。あの黄色を知らなければ、ただの雑草だと思っていただろう。あの時出会えてよかったけれど、だからこそちょっと寂しくて、そういうことってたくさんあるよなーと思った。

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お昼ごはんのお金を払う時、「美味しかったですか?」から「レシートいりますか?」まで、細かいこともすべてスウェーデン語でやりとりできて、相手もわたしのことを普通にスウェーデン語話者だと思っているみたいで、すごくすごく嬉しかった。

そして帰りにアイスを買う時に、同じようにスウェーデン語で挑戦したら、当たり前のように英語で返答されて、悔しくてスウェーデン語で話し続けても何食わぬ顔ですべて英語で返されて、それまでのほくほくした気持ちが一瞬でどこかへ消え去って、自分でも驚くくらいに傷付いた。

わたしがスウェーデン語を話し続けたからか、最後には馬鹿にしたように「tacktack〜」と半笑いで言われて、頼んだミルクアイスはヨーグルトの味がして、腹立たしくて悔しくて悲しくて、店を出た瞬間号泣してしまった。

たしかにわたしは上手にスウェーデン語を話すことはできないし、コミュニケーションという観点でも相手に頼る部分が多い。だけど、誰もが英語を話せるこの国で、この国の言葉をゼロから学び、話すということが、わたしにとって精一杯のリスペクトであり愛情だったから、自分自身を否定されたような、あなたは他所者なんだと目の前でシャッターを降ろされたような気がして、悲しかった。

それでも春は続く日記

4/22(月)

夜ごはんをご馳走になりに、大叔父の知り合いで隣町に住んでいる、元気な日本人のおばあちゃんとスウェーデン人の旦那さんのお宅にお邪魔した。もう何度も行っているのに、極度の方向音痴が災いしてバス停からの道のりをすっかり忘れてしまい、電話も繋がらず、30分以上も迷子になってしまった。そして結局自力では辿り着けなかった。

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イースター最終日ということで、ニシンやゆで卵、キャロットスープ、お肉、ヘーゼルナッツのケーキなどをいただいた。どれも美味しかった。一人暮らしをしていると、こういうスウェーデンの行事や伝統に触れる機会が少ないので、すごくありがたい。

その女性はもう80歳も超えているのだが、波乱万丈な人生を生き抜いた貫禄と愛嬌とちょっぴりの毒気があり、とっても元気でキュートなおばあちゃんだ。日常のことから、これまでの道のり、そして年金や社会や介護問題という真面目な話題まで、息つく間もなくおしゃべりした。60歳くらい上の先輩であり、目上の方ということは重々承知の上で、どこか友達のような気配がわたしたちの間に漂っていることを、お互いが心のうちに感じているような気がする。

彼女の連絡先は出国前にもらっていたのだが、特に連絡を取るきっかけも気力もないまま挨拶が遅れ、いざ連絡したのはかなり後半になってからだった。何回か会ったり、様々な話をしたりするにつれて、「どうしてもっと早く連絡をくれなかったのよ」「わたしがあと10歳若かったら、あなたが働き始めたり、結婚したり、子どもが生まれたりしたら日本に会いに行けたのに。その頃にはもうだめね。わたしは死んでるか老人ホームよ」と、いつも通りのなんでもなさそうなきっぱりとした口調で言われ、しかし少女が口を尖らせて言うような、ちょっと寂しげな色が滲んでいるのに気付いて、胸がぎゅっと切なくなった。年齢はどうにもできないけれど、過去の自分の怠惰を呪った。もっと早く会いに行くべきだった、と思った。今思えば失礼なような気もするけれど、「その時はわたしが老人ホームに会いに行きます」という啖呵が自分でも気付かないまま口をついて出て、彼女は驚いたような目を少し見開いて、そしてくしゃっと笑った。もう帰国まで残り少ないけれど、半世紀先を歩く友人のもとへ、できるだけ会いに行きたいと思う。

 

4/23(火)

スウェーデン語のグループワークのために、クラスメイトとカフェで奮闘した。解散後も残って勉強するなど、その日の日記には「今日はひさしぶりに偉い日」と残されていた。一人の友人に、「あなた、いつも可愛いピアスをつけているね」と言われて嬉しかった。いつだって何だって褒められるのは嬉しいけれど、「いつも」という言葉に、「心に秘めていましたが、これまでずっと思っていましたよ」というニュアンスが感じられて、さらに嬉しい。

出川哲郎出演の『復活の日〜もしも死んだ人と会えるなら〜』のダイジェスト動画を、YouTubeでたまたま見た。故人の口調や姿や動作を最新技術で再現して復活させ、どうしてもその人に会いたい人と話せるようにするという、NHKの企画番組だ。彼の後悔は、もう先が長くない母親にそのことを悟らせないよう、「ありがとう」という一言を伝えないまま最期まで見送ってしまったこと。その不器用な優しさが、なんだか他人事には感じられず沁みて沁みて仕方なくて、わんわん泣いてしまった。言わないという決断と言わなかったという後悔の狭間でどれほど苦しんだんだろう。もうこの世界にはいなくても、彼が目の前の母にその言葉を伝えることができたことに、少し救われた。

 

4/24(水)

自分の腕を過信してお昼ごはんに具なしパスタを作ったら、信じられないほどまずかった。

友達が無事就活を終えて推しへの愛が再熱していた。そういうすごい好きなものがあるっていいな、わたしは映画も本も好きだけど、そんなにすごい見てるわけでも読んでるわけでもないし、好きって言いづらいんだよねーという話を何の気なしにしたら「なんかさー、そういうのもうやめようよ。いいじゃん。上にはずっと上がいるよ。一番とか、そういうの疲れちゃうよ。好きなら好きでいいじゃん」と言われて、わたしはこの人のこういうあっさりとした強さにいつだって救われているなーと思った。

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Foodの授業で、Baking Seminarというものがあり、クラス全員でスウェーデン名物シナモンバンを作った。お菓子作りは久しぶりだ。天文学的量のバターが使われていることに戦慄しつつ、自分で作ったお菓子は美味しさ倍増で、癒された午後。おばあちゃん先生が、赤いフリルの Bake the world a better place と描いてあるエプロンをつけていて可愛かった。ZARA HOMEH&M HOMEで売っているらしいので、ぜひ欲しい。

英語を話せるわけでもないのに日本語をだんだん忘れていってしまっていることを日々痛感している。日記に就寝と書きたかったのだろうが、起床の反対…とでも思ったのか着床と書いていたし(「24時 着床」ってやばすぎる)、今日は航空業界の話をしていて、グランドスタッフと言いたかったのだが「グランドキャニオンかっこいいよね!」と言っていた。かっこいいけれども。

兄に勧められて少年ジャンプ+のアプリを入れ、イチオシだという『忘却バッテリー』 を読んでみたら、面白くて最新話まで一気読みしてしまった。中学時代天才バッテリーとして名を轟かせた片割れが記憶喪失になってしまうものの、高校生になって仲間と出会い、また野球を始める話。

こう書くと熱血王道スポーツ物語臭が漂うが、実際は肩透かしを食うほどなかなかの脱力コメディであり、またそう思って読み進めると、突然猛烈にエモーショナルが待っているという、ちょうどいい塩梅で絡み合う青春ジェットコースター漫画である。特にイップスの話あたりがすごくよくて泣いてしまった。まだ序盤なのでこれからの展開が楽しみ。その調子で『群青サイレン』を読み始めたら、リアルでしんどくて心が折れてしまった。

 

4/25(木)

レポートを提出した。偉い。スープランチを食べにお出かけした。これまでも十分すぎるほど美しい春を感じていたというのに、どこにいたんだ!というくらい突然顔を出してきたチューリップにいたるところで心奪われ、わたしの知らないもっと美しい春が潜んでいたことにドキドキする。

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今日のメニューは、ホウレンソウとイラクサの、優しいミルクスープだった。そのまったりとした温かさに癒された。少年ジャンプ+を開拓しようと、『ムーンライト』を読む。周りから一目おかれる主人公が好きなのです。

明日からの旅行のことをやっと調べ始める。ライアンエアーで荷物は規定サイズに収まるか、搭乗券はアプリで大丈夫かなど、不安が尽きずめちゃくちゃストレス。 去年の改定で荷物の規定サイズが馬鹿みたいに小さくされ、その値段を鑑みても嫌なところがたくさんあるのだけれど、安さには勝てないのでまた乗ってしまう。

 

4/26(金)〜4/28(日)

怒涛のベルギー・オランダ旅行に出かける。なんだかここ最近毎週旅行しているような気がするなーと思ってスケジュール帳を見てみたら、まったく気のせいではなく本当に毎週国外に旅行していた。心の整理がつかないまま次の旅に出るので、感受性のリミッターが破壊されて、何を見ても何を感じてもその瞬間が溢れおちていく感覚だけが残るような気がして、楽しいのに少し虚しい。

霞をたべる日記

4/15(月)

一日スウェーデン語のキャッチアップして、夜は授業に行った。相変わらず手応えがなくて、どれだけ集中しても聞き取れず、キィ〜〜!!と叫びたくなるような衝動と自己嫌悪に苛まれる。なんでスウェーデン語の授業取ったんだ!こんなに辛いって前期からわかってたのに!と思うことも多々あるし、すぐに忘れてしまうかもしれないけれど、この未知の言語との格闘の日々とか、ピザの焼き方の説明が読めて嬉しかったとか、友達の両親が送ってくれたバースデーカードの文章が、翻訳なしでそのまま胸にすとんとおちてきて泣きそうになったとか、そういうことはずっと忘れたくないな。

インドネシア人の友達に、「あなたの筆箱、ジブリの空みたいだね」と言われて驚いた。日本から来たというと、ジブリの話をしてくれる人によく出会うけれど、「ギブリ」と発音するのに未だに慣れず、一瞬何のことだろうと間が空いてしまう。『風立ちぬ』を見てから、意識しているだけかもしれないけれど、まわりでジブリの話をよく聞くような気がする。

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この筆箱は、高校生の時に海外研修で初めて海外(イギリス)に行った時に記念に買ったもの。スリが怖すぎてて、友達と3人で袋いっぱいのキャスキッドソンを両手で胸にかたく抱えて歩いたことを覚えている。たしかその年の限定デザインで、イギリスの田舎町の空をイメージした、というような説明を読んだ気がする。色褪せてぼろぼろだけど、そんなことも気にならないくらい、あれから4年間ずっとわたしの相棒。

 

4/16(火)

友達と植物園でお茶した。ぽかぽかとした陽気の中、池の近くのベンチに座ってコーヒーやケーキを食べた。友達がクッキーを焼いてきてくれて、幸福なピクニックだった。

中国人とスウェーデン人の女の子ふたりと、それぞれの国のメディア産業や、将来についての話をして、どこで生まれようとも、どこで生きようとも、だいたいみんな同じようなことで悩んだり焦ったりしているんだなーと少し安心した。

ただ、こっちに来て驚いたのは、何かやりたいことができた時に「◯◯をやりたい→△△が必要だ→□□の勉強をしよう」という道筋を当たり前に描いて、当たり前にすっと辿れる人がすごく多いということ。その途中で失敗したり、やっぱり違うことをやってみたくなった時は、転部したり専攻を変えて一年次からやり直したり、ということをスパッと決断する。それを当たり前にこなせる感覚も、当たり前に受け入れてもらえる環境も、日本にはあんまりないなーと思う。学費が無料とか、専攻と将来の仕事が重なる重大さとか、色々と事情はあるだろうが、好きな学問を見つけて向き合えるのってすごい能力だと思う。勉強が好き!知るって楽しい!って、当たり前に話すスウェーデン人に何人も会った。勉強が趣味の一つになる人がこんなに多いのはやっぱりいい国だと思う。

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カメラを持っていって、春の花々の写真を撮った。

もう2年も桜を見ていない、と思っていたけれど、それは思い込みだったらしい。このスウェーデンの小さな町でも、いたるところで桜を見かける。

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桜の花の幽かな揺らめきには、他のどんな花とも違う美しさがあって、時がゆっくりと流れているように見える。ついつい足を止めてその様を見つめて、やっぱり特別だ、と簡単に納得してしまう。

 

4/17(水)

フラカンの『深夜高速』を聞いて、なんかよくわからないけど嘘みたいに泣いていた。


深夜高速 / フラワーカンパニーズ

 

4/18(木)〜20(土)

オスロヨーテボリに、2泊3日の一人旅に出かけた。今年の誕生日プレゼントは、生まれて初めての一人旅。そわそわしながらバスに乗っている時、リュックひとつとわたしだけですべて完結してしまう身軽さが心許ないような気もしたし、どこへでもいけるんだって背中を押してくれているようにも思えた。

少しは観光地を調べていったものの、その時その場所の感覚でやりたいことをやろう、と決めていた。「ひとりでどこへでも行ける」という旅で自分が何に優先順位を置くのかにも興味があった。本能のままにふらふらした結果、食は言わずもがなだけれど、海辺や植物園をお散歩したり、何もせずに広場で日向ぼっこして本を読んだり、なんだかいつもと同じようなことをしていた。

特に何か悲しいことがあったわけでも、信じられないような出来事が起きたわけでもなく、ただぼーっとしていた旅だったような気がするけれど、ひとりきりでこの3日間を過ごせたことは、わたしにとってすごく意味のあることだった。いつかきっと、古い写真を指でなぞるように愛おしく思い出すだろう。

 

4/21(日)

もう毎週書いているような気がするが、旅から帰ってきた次の日は、お酒を飲むと眠くなるのと同じくらい、限りなく100%に近い確率で抜け殻になってしまう。

ジャニヲタの親友と電話した。毎週「我々今週も生きているだけですごく偉かったね」というスタートを切る。面接で一花咲かせるのが得意らしく、もう内定もあるし来週は第一志望群の面接だらけで、それが決まったら就活はもう終わる!と言っていて、すごく喜ばしいことなのだけれど、未来がまったく見えていないわたしにとってはちょっとプレッシャーを感じてしまった。

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就活に対する不安と重圧は、これまでの人生で経験したことのないくらいの質量と密度を持って迫ってくる。やってやるぞ!という気概も、自分に対する自信もないわたしは、その圧にいつもへたりと座り込んで、だけど向き合わないわけにはいかないとわかっているから、いつも頭の片隅で絶望している。毎日書いている日記をこれを書くたびに読み返したら、あまりにも切実に不安を吐露していて、たった一週間前の自分なのにその健気さに胸がぎゅっとなって抱きしめたくなってしまった。いつだって弱気なまま、二本足でここまで歩いてきたこれまでのわたしのために、しゃんとしようと思う。

ウィーン旅行記

3/29(金)

いつも早朝のLCCで飛ぶので、ちゃんと起きられるかどうか嬉しくないドキドキが止まらない夜を過ごすのだけれど、めずらしく午後の便で悠々と出発。それはそれで、出かけるまでの半日ずっとそわそわしていた。

いつでもチェックイン可能なはずの、宿泊予定のairbのホストの人から突然「仕事に行くから絶対に19時までに家に来い」という内容の長文お怒りメッセージを受けて、飛行機のスケジュール的にほぼ不可能だったので、冷や汗をかきながら出発。突然現地で家なき子になってしまったらどうしようと怯える。

結局飛行機が早めに到着して、さらにミスなく電車に乗ることができたので無事間に合った。ホストの人のプロフィールがサイコ感に溢れていて心配していたけれど、喜怒哀楽の表出が激しいだけのハッピーないい人だった。ジャンプ力が突き抜けている、大きな犬がいた。カワよりブサの方が比率高めのブサカワ犬で、それがまた愛くるしかった。

ウィーンでは、蛇口をひねるとアルプスの湧き水が出てくるらしい、と聞いていたが、噂に違わぬ澄んだ水で嬉しい。もう夜遅かったので、歩いて10分ほどの場所にあるレストランで夜ご飯を食べた。Ottakringer というウィーンの地ビールと、ウィンナーシュニッツェルと、ツヴィーベルローストブラーテンという難しい名前の、ローストビーフをステーキした何とも贅沢なご当地グルメを食べた。

地元に愛されている、和気藹々としたレストラン。暖色チェック柄のテーブルクロスや自然色の電灯、家族連れ、店員さんとお客さんの距離。健康的な明るさの場所だった。英語のメニューはなかったけれど、店員さんが丁寧に希望を聞き取って翻訳してくれたり、おすすめを教えてくれたりして、温かかった。食べ物はボリューミーで、出来立てほかほか。大きいサラダやパンもついてきて、その食事やウェイターさんの一言や笑顔から、歓迎されているということがわかる。歓迎は祝福だ。異国でのそれは、余計身にしみる。

閑散とした住宅街を歩いて帰って、ぐっすり眠った。夜の空が黒よりも真っ暗で、少し怖くなった。部屋が乾燥していたのか、夜中何度も起きて水を飲まなければいけなかったけれど、辛い目覚めを潤すアルプスの水は心地よかった。

 

3/30(土)

ウィーンを観光できるのはほぼこの一日だけなので、朝から張り切って活動。部屋をチェックアウトして、電車で市内に出る。ヨーロッパで感じたことがないくらい、電車の治安が良くて驚いた。パン屋さんで朝ごはん。普通のパンみたいな、サクサクしていない密度の濃いクロワッサンと、カフェラテを頼んだ。この種類のクロワッサンは食べたことがなかったけれど、もちもちしていて美味しかった。何よりも、ミルクが多めのまろやかで甘いカフェラテが優しくて、朝から癒された。

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ホーフブルク王宮の外観を見てから中を彷徨って、お目当のオーストリア国立図書館へ。世界で一番美しいと言われている図書館。扉をくぐった瞬間に壮麗な空間が目の前に広がっていて、迷い込んだRPGの主人公みたいに立ち尽くしていた。

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棚の後ろの隠し部屋や隠し本棚、天文学の資料や、4つの地球儀と宇宙儀。美しい天井画や装飾。違う世界の入り口みたいだった。薄いベールを纏った特別な空間。ダブリンのトリニティ・カレッジの図書館も素晴らしかったけれど、あそこに魔法の書があるとすれば、ここには世界で一番美しい星についての本があるはずだ。どちらも、美しさだけでは説明できない匂いがある。気品の奥のあやしさ。光の中に渦巻く煙。

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歩いて美術史美術館へ。ここは、わたしの両親が新婚旅行で訪れた場所で、母が絶賛していたので、一度行ってみたいと思っていた。中世風の建物に囲まれた広場にある。薄い春の空で、暖かくて、こんな季節も気持ちも一年ぶりで、目を細めた。

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建物自体が美術品みたいな場所。世界で一番美しいと言われているらしいカフェが併設している。シンメトリーが心地いい。(価格は心地よくない)

至る所にふかふかのソファーがいくつもあって、絵画をゆったりと眺めることができる空間。贅沢な絵との対話は文字通りの鑑賞で、人もそこまで多すぎず、存分に味わうことができる。展示室ごとに壁の色が違ったり、照明の明るさが違ったりして、 人が絵を楽しむための最適な環境が作り上げられていた。

目玉はブリューゲルの作品群。『バベルの塔』や『雪中の狩人』など、彼の作品のための部屋がある。これまで彼の絵を見たことがなかったけれど、空間をスペクタクルに捉え、その中に日常を生きている人々や当時の生活が細部まで描かれていて、見ていて楽しい。隅々まで見れば見るほど発見がある。決してリアルな絵ではないけれど、本当に人の生活を覗き見ているような気持ちになった。想像することすら難しいような、その場所、その時代に、かつて確かに生きている人々がいて、そしてその姿を一枚のキャンパスに閉じ込めようとした人がいて、わたしは今その瞬間とその思いに向き合っていると思うと不思議。特に『子供の遊戯』が好き。ちょっとレイトン教授を思い出した。

それ以外にもたくさん作品があったけれど、名画と呼ばれる絵がうじゃうじゃしていて、なんだか感覚がインフレしておかしくなりそうになった。一生分の美しいものを、この一年で吸収している気がする。

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その後、楽しみにしていた、ホテル・ザッハーのザッハトルテを食べに行った。並んでいたけれど、外でもいいと言ったらテラス席に案内してくれて、並ばずに食べることができた。封蝋の形のチョコ!デビルケーキみたいな甘々のやつを想像していたけれど、しっとりとした、ちょっと酸味の効いたスポンジとチョコと生クリームの相性が素晴らしくて、最高に幸せだったー。旅は美味しいものの記憶でこそ輝くのだ!

そこから、わたしの留学中の目標の一つであり、長年夢だった絵画を見に行った。トラムを乗り継いでベルヴェデーレ宮殿。まさに王室の建物!という感じのところがギャラリーになっていて、テーマパークに入場する時のような胸の高鳴りがあった。

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メインのギャラリーに入場する前の空間がすでに豪華で、シャンデリアがいくつも吊るさっている。けれどギャラリーは落ち着いた白の空間で、そのコントラストが面白い。

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そして念願のクリムトの作品群を、初めて見ることができた。散りばめられた金箔は、きらびやかに絵を飾るというよりも、独特の世界の中で静かに鈍く光っていた。エキゾチックで、官能的で、どこか物悲しい。

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わたしの夢だった『接吻』。美しくて、幸せそうで、切なくて泣きたくなるような絵。本当に幸せな瞬間はいつだって崖の上に立っていて、満ちていく喜びと同時に張り裂けそうな切なさを孕んでいるのかもしれない。不思議な温度だった。わたしにとって、間違いなく特別な絵で、ずっと見ていられる、見ていたい、と思った。

しかしそんな時間も取れず、中心部に戻ってオペラ座の行列に並び、立見席のチケット購入に挑戦。30分くらいで販売開始時間になり、無事に4ユーロで舞台正面の2階席の立ち見チケットを無事手に入れることができた。

開演までは40分ほどしか時間がなかったけれど、近くのレストランでしっかり夜ご飯を掻き込む。ウィーンで有名らしい赤ビールと、シュニッツェルとニョッキと謎のサラダ。食べる遅さに定評のあるわたしですが、もうガンガンに頼んで飲んで食べて、過去最高の早食いを見せつけて、なかなか来ない会計にはらはらし、残り5分で会場に入れなくなる!という瀬戸際で店を飛び出し、ウィーンのお洒落な黄昏時をニューバランスで全力で駆けた。

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演目は『ばらの騎士』。2回休憩があり、すべて合わせて4時間ほどの長丁場。まったく考えていなかったけれどドレスコードなるものがあり、タキシードやドレスを着たムッシュー・アンド・マダムたちが会場を席巻していた。立ち見席は例外ということで、わたしはニューバランスにスキニーという申し訳ない格好で入場を許されたけれどしっかり周囲を困惑させてしまった。

足元のモニターで字幕を出してくれるので、ドイツ語のオペラも理解することができたが、会場のムッとしたこもった空気と乾燥と立ち見席の混雑と暑さと立ちっぱなしと水分不足がもう想像を絶するほどに辛くて辛くて、流し込んだビールと夜ごはんも胃を渦巻いていて、本当に倒れる寸前であった。実際に倒れてしまう人もいて、休憩を挟むたびにダース単位で人が減っていき、行列を並んでチケットを勝ち得たというのに、終幕までいた人はほんの一握りだった…。

正直に言えば、わたしのような平凡な人間にとって、初めてのオペラはまだ到底味わいきれない娯楽だった。いかんせん立ち見席のオペラ鑑賞は苦行耐久レースなので、幕間のたびに外に飛び出て、新鮮な空気を取り込みながら水をがぶ飲み。人気の演目らしいけれど、一幕のクライマックスで、浮気相手の男の心変わりを案ずるマダムの歌がもう長くてしつこくてしつこくて、すでに「もうええわ、ありがとうございました〜」という気持ちだった。しかし最終的にマダムはいい奴だった。マダムの愛には1ミリくらい心が動いた。大変だったけれど、本場のオペラをたった4ユーロで見届けられたのはいい経験だった。

貧乏旅なので、この日の夜は命からがら空港泊。空港がめちゃくちゃに乾燥していて、さらに到着ゲートの前に座っていたら、どこかの国から到着した人たちが強烈な花粉?を持ってターミナルに入場してきて最悪だった。一晩中鼻水とくしゃみと目のかゆみに苛まれながら、マックのサラダを食べつつうとうとしていた。

 

3/31(日)

朝5:30のフライトで帰国。空港泊は辛いけれど、これくらい早い飛行機だとまだなんとかなる。

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お洒落でゆったりしていて、都市というよりは都という呼び名の方が似合う品格ある街、ウィーン。とても好きな街になった。空も土地も広くて、空気も水も美味しく、治安もいい。暖かくて空は晴れ渡っていて、平和をかき集めたみたい。芝生や庭のベンチで日向ぼっこしている人がたくさんいて、そんな風にこの街でのんびりと生きてみたくなった。

ヘロヘロな体に鞭打つ日記

4/8(月)

5月に叔母がパリに旅行に来るということで、会いに行くための航空券を探すも、どれもあまりにも高額。泣く泣く取ったけれど、息絶え絶えの口座から悲鳴が聞こえる。

一日中、金曜までのレポートをコツコツ書いていた。かなり、何言ってるんだ?という仕上がりになってしまっているが、もう戻ることはできないので、何も考えず前だけを向いて着々と明後日の方向に進んでいる。大学に入学するも友達ができず病み期を迎えていた弟は、迷走の結果アルティメットと華道のサークルに入ったらしい。我々の迷走は終わらない。今日はスウェーデン語の授業で友達ができて嬉しかった。

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昨日まではフィルムカメラみたいな儚い空だったのに、『風立ちぬ』を見たからか、本当に季節が夏に一歩進んだのか、今日は澄んだ青のジブリみたいな空だった。キッザニアの天井みたいな、セットの中に入り込んだ嘘みたいな感覚。

 

4/9(火)

今日も朝からレポートを書き続ける。それが正しい道かはもうわからないが、霞の中のゴールがおぼろげに姿を現してきて安心した。明日から旅行なので、冷蔵庫の中を全部整理しようと試みる。お昼ご飯にきのこと玉ねぎとトマトを煮込んで、そこで鶏肉を焼き、夜ご飯は鶏肉の出汁が沁みた残りでトマトパスタを作った。この異国生活でメキメキと培った自炊力にかなり生かされている。

1ヶ月前に授業で知り合ったオランダ人の友達と、初めてお茶した。これまで出会ったどんな人よりもめちゃくちゃによくしゃべる明るい女の子で、二人で会うのは初めてだったけれど、2時間ぶっ通しで話し続けた。友達と約束して一緒にダイエットを頑張る、とかよく聞くけれど、彼女の友人が肉を食べるのをやめる代わりに、彼女は禁煙するというめずらしいタイプの約束をしていて、誘惑と友情を秤にかけて煙草を我慢していた。

初めての出会いはスウェーデン語の授業で、わたしが勇気を振り絞って「隣座っていい?」と声をかけた時、彼女は間も置かず満面の笑顔で「No」と言った。その瞬間すごく驚いて、ひやっと肝が冷える感覚がしたことを覚えている。今日も、許可を取るためというよりは社交辞令のように「トイレ行ってきていい?」と言ったら、同じ笑顔で「No」と言われて、まだ一瞬ヒヤッとするけれど、あの頃とは違うユーモアに気付ける距離感にふと嬉しくなったりした。

この一年で友達ができないという悩みと人生で初めて向き合って、辛い思いもたくさんしたけれど、糸を手繰るようにわずかな出会いを大事にして、誰かと本当に分かり合えた瞬間の小さな喜びをしっかりと抱えて生きるこの一年はすごくいいものだった。これから二度と会えない人とのその瞬間は、これからのわたしをたしかに形作るのだと思う。

彼女は豆腐にはまっていて一連の調理法を教えてくれたのだが、ステップ1が「薬学部の彼氏の分厚い教科書で豆腐を絞って水分を出す」で、再現性がなさすぎて笑っちゃった。

友達から「ユーチューバーのテング感が嫌で倦怠期だよぉ」という漠然としたSOSが来て、具体的なYouTuberの名前をこちらがあげていくと、次々に「あいつはだめだよ!香ばしすぎだよお〜!!」と叫んでいた。我々の生活にはまったく関係がないというのに、愛憎せめぎあう対YouTubeとの一対一の感覚が面白かった。

 

4/10(水)

朝、突然部屋のピンポンが鳴って、見ず知らずの男二人が立っていた。「部屋間違えてますよ」と言おうとしたが、寝起きだったのでやめた。他の友達も同じようにやられていたらしく、誰かわからないけれどすごく怖かった。出なくてよかった。洗濯しに一階に降りたら、エレベーターホールで「ママ〜〜!!!」と、ちょっとラリっている感じで気味悪く叫んでいる男の声がしてさらに恐怖だった。Queenより半オクターブ高めのママ。

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前夜寮の玄関が電動モーターサイクルで責め立てられていた事件と関係しているのかもしれない。ただの機械が複数玄関に置かれているだけなのに溢れ出る狂気。

映画を見る予定のFoodの授業でポップコーンが配られて最高だったが、機械の不具合で映画がほとんど流れず、ただポップコーンを食べる授業になってさらに最高だった。

授業終わり、そのまま空港に行ってLOTでタリンへ飛んだ。空港までの道中にひこうき雲をいくつも見た。空を裂くような、短く垂直に伸びるひこうき雲を見かけると、墜落していく飛行機を静かに眺めているような、なんとも言えない後ろめたさを感じてしまう。

 

4/11(木)〜4/14(日)

3日間でバルト三国を巡る、過酷旅を敢行。想像はしていたものの、本当に辛い旅だった。予想以上に厳しかったのは早起きと寒さ。毎朝6時くらいの長距離バスで国を渡るので、疲れた体に鞭打って、日々4時起きで準備しなければならなかった。時差で1時間遅くなっている(スウェーデン時間では3時起き)のも相当に辛い。そして我が町の春うららに有頂天でスキップ状態だったわたしは、忘れかけていた宿敵、氷点下の極寒に背後から張っ倒され、見事に凍死寸前だった。とにもかくにも、無事に生きて帰ってくることができてよかった。

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↑タリンの民族衣装ガールと、リガの足が紐ガールが追加された

家に何もなかったので、這いつくばって出かけたスーパーまでの道中の公園で、かなり歳のいった様子のおじいちゃんとおばあちゃんがブランコで遊んでいた。お皿のような形の平べったい台が吊るされていて、それに寝転んで揺らしてもらう形のブランコで、おじいちゃんが寝転んで、おばあちゃんがそれをガンガンに揺さぶっていた。大丈夫かと心配になってしまうほどの勢いで、子どもも顔負けくらいの全身全霊で、ずっと二人で大笑いしながらブランコを楽しんでいて、こういう人生を送りたいなーとヘロヘロの体で羨んだ。

短くて美しい春の日記

4/1(月)

いつものごとく旅の疲れで抜け殻になってしまったので、一日中家にこもって何もしなかった。今日は空が信じられないほど青くて、春が本気でこちらに向かってきているという感じがする。

朝起きたら、新元号が決まっていた。わたしの名前はひらがなだし(漢字だったら自分にも関係があると思っているあたりの自意識)、新元号自体にもそこまで興味はなかったのだけれど、前日ねむる前に自分の名前に漢字を当てるとめちゃくちゃ元号っぽいことに突然気付き、「これは来る」という謎の確信で謎にパニクっていた。一生いじられるじゃん…これから何回「え!元号と同じお名前なんですね〜〜めずらしい!もしかして元号からお名前つけられたんですか?笑」いやそんなわけあるかとっくに生まれてたわ馬鹿、みたいなしょうもないやりとりを繰り返すんだろう…まさかこんなことになるなんて…という絶望の中眠りについたけれど、朝起きたら超杞憂だった。えへへ。

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今日唯一生産的だったのは、ベルヴェデーレで買ったマグネットを貼ったことくらい。特にマグネット好きなわけはないが、旅先で気に入ったものがあると細々と集めている。

フィンランドで買った魚とムーミンバルセロナで買ったガウディのモザイク風サンタさん。ダブリンで買ったおじさんと羊。そして、夢だったクリムトの絵たち。

 

4/2(火)

今日も嘘みたいな春の日。帰る前に一人旅をしてみたいと思い立ち、ヨーテボリオスロへのバスや電車、宿を予約した。電車旅の予定だったけれど、安いチケットはどれもバスなのでほぼバス旅。正しいバスに乗るということが苦手なので、すごくドキドキしている。

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気力が復活して暇を持て余したので、隣町にお出かけ。バスから見上げる、儚げな薄い水色の春の空が、フィルムカメラで撮った風景に似ていた。初めてここに来た日、デンマークからスウェーデンに向かう電車の窓からスウェーデンを見て、「お好み焼きみたいだ」と思った。液体が地面に広がってそのまま固まったみたいに、ただただ平らな地面が広がる風景は、山に囲まれた場所で生まれたわたしにとって異様でさえあった。空はどこまでも上に続くけれど、山の背中に消えることなく、ただひたすら下にも伸びていくということを知った。そして、下に行くほど白く淡くなるのだ。映画のスクリーンの中にいるような、ゲームで作った街の中にいるような不思議な感覚がして、天幕説を思いついた人の気持ちがわかるような気がした。映画館みたいな街だ。

HOLY SALAD という神々しい名前のサラダ専門店で、アジアンシーザーという名前のサラダを食べた。生姜味の人参、辛すぎるパプリカ、枝豆、パクチー、謎のハバネロライム・ドレッシングという、あまりにもパッとしないサラダにちょっと萎えてしまったが、海老と春雨に救われた。美味しそうなチーズの名前を聞いたらゴーダチーズだと言われたので、これはいい!とトッピングしてみたら、ゴートチーズの聞き間違えだった。あの獣臭にすっかりやられてしまい、それが決め手でノックアウト。

帰り道窓の外を眺めていたら、一瞬桜みたいな何かの残像が見えて、慌てて後ろの方を振り返ったけれどもう見えなくなっていた。こんな北の国の、家すらないような田園風景の中に一人静かに立ち続ける桜がいるとしたら、それはすごく美しいと思った。それはわたしの脳内のイメージだけれど、それでも本当に美しいと思った。

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この日の日記を見返したら、「最近時間が経つのがめちゃくちゃ早いから、気をつけなきゃいけない」と書いてあった。春に気をつけなきゃいけない。

 

4/3(水) 

午後は授業で、あとは1日糖尿病疑惑に絶望して使い物にならなかった。自分の両方の顔の側面に、ほくろで北斗七星ができることを発見して歓喜していた。

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4/4(木)

念願のハイキューの最新刊をKindleで購入した。最近忙しいのでひと段落ついたご褒美のために取っておいてある。

健康のために、バナナとシリアルとヨーグルトを朝ごはんに食べて、お昼ご飯にも夜ご飯にもサラダを食べた。突然のヘルシー生活。バランスよく野菜を摂れるって才能だと思う。放っておくと、一つの食べ物を一週間連続で食べられてしまう人間なので、意識的に満遍なく栄養を取るということが本当に苦手だ。

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偶然兄弟と電話した。なんでそんな話になったのか忘れたが、兄直伝の女の子を口説くコツは、相手を軽くディスって下げることで、相対的に自分をあげることらしくてセコくて笑っちゃった。女の子は自分より下だと思う人には惹かれないから、らしい。それはよくないよと諌めたら、相手が気にしないような、どうでもいいことをいじるんだ、その塩梅が重要なんだ、と言うので、たとえば?と聞いたら「自分よりごはんを食べるのが遅かったら「牛かよ〜」って言うとか」とのこと。なにそれ?!

 

4/5(金)

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午後から授業。道中の至るところで花が咲き始めていて、そんなところに花があったのか!これはただの木じゃなかったのか!と、毎日新鮮に驚き続けている。

北欧のアート映画についての講義で、『テルマ』を見た。監督は、あのラース・フォン・トリアーの甥っ子のヨンキム・トリアーで、彼は日本の大ファンらしい。先生が毎週『ハウス・ジャック・ビルト』を異様に勧めてくるのだけれど、人に勧めるものではないのでは感が否めない。わたしは絶対に見ない。怖いので。

テルマ』は、同性愛や宗教、家族、超能力など多様な要素を絡めた、ホラーでありSFでありミステリーで、一度では飲み込めきれないくらいの情報量だった。色んな要素が絡んでいて、どの観点から見ても興味深い映画。音楽も映像もすごく良くて、アート映画に括られるのも納得だった。めちゃくちゃネタバレですが、冒頭の、少女が殺されそうになる息を呑むような美しい氷の湖が、父と弟二人の死に場所になるという対比と、皮肉にもその二つの画が恐ろしいくらい美しいことに鳥肌がたった。美しさと狂気がいかに一体であるかということを証明した映像。あまりにも美しいものは畏怖さえ感じられ、そして時に狂気には美が宿り、それが『テルマ』であり『ハウス・ジャック・ビルト』なのだと思う。見てないけど。

授業で少しだけ見た『リリア・フォーエバー』の、走るシーンの映像と音楽の組み合わせが良くて、めちゃくちゃ可哀想な鬱映画らしいけれど、いつか気力がある時に見てみたいと思う。

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例の男の子に借りていた本を無事に返したのだけど、弾まない世間話のあと、チラッと時計を見て「じゃあ俺この後予定あるから…」と無表情で言われ、わたしのセンチメンタルな乙女心が音を立てて割れた。

そういえば、帰り道に寄ったスーパーの自動ドアから二羽の鴨が出てきて、どうしようもなく愛おしくなってしまった。夜適当に作った野菜炒めが美味しくて、野菜炒めと鴨に救われた。

 

4/6(土)

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友達とルイジアナ美術館に行った。ひとりでいるのも好きだけれど、遠くの景色が白く霞んで見える春に、わたし以外の誰かもこの景色が同じように霞んで見えていて、それを一緒に見て美しいと話し合えることが素晴らしいと思った。この世には、わたしの知らない美しい花や季節が無数にあるということが嬉しくも寂しくもある。目を細めて泣きたくなるような季節だ。桜がなくても春は美しいということを知った。

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ルイジアナ美術館は、設計と自然の完璧なバランスの上にひっそりと佇む、夢みたいな場所だ。人生で初めて、海に太陽がチリチリと反射して、星の粉を撒いたみたいに、波が細かくきらめき合う瞬間を見た。おとぎ話みたいな景色に心から興奮して写真を撮りまくったけれど、もちろんカメラには映らなかった。空との境界がない海は、天国なんじゃないかと疑ってしまいそうな儚さで、美しすぎて遠かった。

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美術館内も、白と木を基調とした洗練された空間だ。突然現れる庭の宇宙や、壁一面がガラス張りで、それ自体が一枚の風景画として見える池など、新鮮な小さな驚きに魅せられた。

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Liu Xiadongさんの、グリーンランドに旅した時の絵の特別展示が一番好きだった。絵の具の水墨画。一色と一本で映し出される立体感。壮大な自然の息遣いと、そこに生きる人々の瞬間を鮮やかに描き切っていた。

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草間彌生の常設展示の部屋もあった。一度に入れる人数制限がある。チームラボみたいで驚いたけれど、言われてみれば確かに水玉だ。 

素晴らしい一日の終わりに、アプリ内広告で閉じるボタンを押すつもりが、間違って触ってしまった購入ボタンのせいで勝手に1800円も課金されて泣いた。執念で韓国のアプリ会社のウェブサイトのリクルート用と見られるコンタクトにもAppleにもメールした。

 

4/7(日) 

来週金曜までのレポートに取り掛かり始める。水曜に旅立ってしまうのに1400wordsは書かなければいけないので、全然時間がない。お母さんに電話をかけたら、嬉しそうな声で嬉しかった。

最近の一連の出来事を話して、「お母さんとあなたの心配事の、98%は起こらないから大丈夫だよ」と言われて、大きな悩みも小さな悩みもなんだか全部吹き飛んで、一瞬で浄化された。わたしの心配性は、母に似ている。けれど母は「なるようになるんだから、もう心配はしないことにしたの!」と吹っ切れたように言っていて、力強いなあと感心した。

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ロロの『はなればなれたち』のチケットを無事確保してホクホクしている。

カフェでホットチョコレートを飲んだ後に『風立ちぬ』を見て、ガツンと打ちのめされ、帰り道「すごいなあ・・・すごいなあ・・・」ばかり言って使い物にならず友達に引かれた。本当にいい映画だった。

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どんどん日の暮れが遅くなって、最近は20時すぎまで明るい。この冬は長く暗く厳しいものだった。今思えばちょっと鬱状態でもあって、毎日10時間以上寝ないと体調が悪く、朝は気休めのようにビタミン剤を飲んで、ギリギリの気力で這いつくばっていた。今、美しい花がそこかしこに咲き誇り、空は澄んで、日を追うごとに世界が明るくなっていくことを実感している。明日はもっとたくさんの花が咲いて、日はもう少し長くわたしたちを照らすだろう。明日が今日よりも素晴らしいという確信以上に素晴らしいものがあるだろうか。こんなにも美しい春に出会えてよかった。

映画『風立ちぬ』が刺さって抜けない

わたしの住んでいる北欧の片隅の小さな街で、半年以上にわたる宮崎駿10作品の上映祭が終了した。すべてを見ることはできなかったけれど、そこに出かけるたびに、国境を超えて、字幕でも音声でも一つの作品を一緒に見て一緒に笑い心ふるわせられること、日本の作品が遠くの果てで愛されていることに、何度だってじんとした。

初めて見たのは『天空の城ラピュタ』。それまで一度も『ラピュタ』を見たことがなくて、新鮮にジブリの凄さを思い知ったことを覚えている。どうしようもない悔しさを抱えながら走り、そして転んだパズーが、握ったコインをヤケになって投げつけようとして、堪えて、もう一度握りしめて立ち上がって走り出すシーンに。その数十秒にジブリの、アニメーションの美しさが詰まっているような気がした。想像の何倍も切なくて影の濃い物語で、これが始まりだったということに打ちのめされた。 

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そして、きのう最終作である『風立ちぬ』を見に行った。当時これが最後の宮崎作品と謳われ、実話を元にしたストーリーということで話題になったが、蓋を開けてみると賛否両論だったことを思い出す。日本公開時は見そびれてしまったので、一体どんな物語なのだろうと身構えて出かけた。東京大地震結核療養所、戦争、どれも嘘みたいな本当のことであることに序盤から改めて沈みつつ、それがジブリで、宮崎駿の手で描かれているということに驚いた。これまでファンタジーの中にリアルを映し出してきた彼が、リアルの中にファンタジーを、言い換えれば、夢を投影しながら現実そのものを描こうとした、ということ。

夢は便利だ、どこへでもいける

胸が痛むようなシーンでも、クスクス笑う海外の人がたくさんいて、笑っちゃうような歴史が日本の現実であり過去であり、そして未来でもあるかもしれないんだよな、なんて考えていた。どこへでもいける夢を見ながら、どこへもいけない現実を生きる、主人公と菜穂子のやるせなさが切ない。

 

風立ちぬ』、本当によかった。残酷で、そしてどうしようもなく美しい映画だった。違和感を感じる場面もあったけれど、それでもこの映画に流れる周波数はわたしのと同じだった。幸せだった記憶を後から思い出して、やりきれなくて泣きながら微笑むみたいに、映画を見ながらいつかの余韻を追体験していた。菜穂子が東京にやってくるあたりから、もうずっと、涙が止まらなかった。

空に憧れて始まった夢が、命を乗せて瓦礫の中に終わる。風に吹かれて始まった恋が、風の中に消える。世の中も、人間も、皮肉と矛盾でできているという当たり前の事実。それは、強い反戦感情を持ちながら、戦闘機に憧れ続けた宮崎駿という一人の人間の中の矛盾であり、愛する人と共に生きたいと願いながら、結核患者の前で吸う煙草。菜穂子の命と煙草を天秤にかけるのではなく、ただ、愛する人と手を繋いだまま煙草を吸いたかったのだと想像してしまう。そして、菜穂子はそれを見たかったんだろうな。

僕らは今、一日一日をとても大切に生きているんだよ

一緒に生きたい、という二人の願いは、共に生きる時間の長短ではなく、その密度にあった。何が正しいことで、何が許されるのだとか、そういう世の中の常識とは無関係のところに存在する場所で、二人は手を繋いでいた。

こっちに来てから読んだ『The Fault in Our Stars』のことを思い出していた。0と1の間には無限の数字がある。ガンと闘う若い二人が、一緒に生きることのできた時間は短かったけれど、数えるだけの日にちの中には、確かに永遠があった。

生きているって、素敵ですね

陳腐な言い方をすれば、この作品は残酷さを描きながら、「生きる」ということをまるごと肯定する物語だ。そして、どんな悲劇が起こっても生きていかなければいけない人間の、本当の話だった。

美しいところだけ、好きな人に見てもらったのね

どこまでがフィクションか、ということとは無関係に、生身の人間の脚色のない愛を、こんなにも真摯に、宮崎駿は描こうとした。そのことにどうしようもなく感動してしまった。

愛という語られ尽くしたテーマを、言葉を伴わない画の細部に散りばめ、命を吹き込む手腕。風が吹いて、恋とともにスカートやパラソルが膨らむ。好きな人の美しさで、髪が輝いて見える。わたし達は、それを目でも耳でもなく感性で理解することができる。そして、最も驚愕し感動したのは、言葉以外の方法で愛を描くことこそが美学だとされるこの時代に、あれほどの画力と表現力を持った宮崎駿が、「大好き」「愛してる」という、手垢のついた時に陳腐にも聞こえる言葉を、ストレートにアニメーションの中で発話させたこと。すげえ…と思った。最後だと決めていた夜に、「大好き」と言って、相手の体全部をしっかりと温められるように、布団をかける動作を縁側から映したシーン、あれを愛以外のどんな言葉で呼べようか。この作品は、その言葉と言葉以外のバランスが本当に素晴らしかった。

狂気も夢も罪も愛も、どれもほんの少しのバランスの上で成り立つアンビバレンスで、わたし達はそんな現実に生きている。美しいものはいつだって残酷で、残酷さは皮肉にも美しい。それはどうしたって背中合わせで、対立するものでもなければ、どちらかを選ぶことさえできない。残酷を死に置き換えたっていい。ラストの夢のシーンの、「生きて」「ありがとう」そのたった二言がすべてだった。心の底がふっと舞い上がるみたいな、力強い祈りだった。あの絞り出すような「ありがとう」を、わたしは当分忘れられずにいると思う。風立ちぬ、いざ生きめやも。「ひこうき雲」も、よかったな。