タイの僧院にて|青木保

前に書いた、尊敬する青木保さんの、タイでの僧生活の記録でありエッセイのような、「タイの僧院にて」を読破した。わたしの中では、青木さんはすごくスマートなイメージだったので、大学院時代の混沌期や精神的葛藤、自分自身の理想の人類学者像、人に対する審美眼とその人柄、ふとした発見とそこから得る洞察の鋭さ、そして情熱。刺激的な読書体験だった。

タイの僧院にて (中公文庫 あ 5-1)

タイの僧院にて (中公文庫 あ 5-1)

 

学生運動の考え方(の一部)と相いれず、空虚さを感じ、自分自身の進む道も曖昧だった青木さんが、自力本願(これこそがテラワーダ仏教の肝でもある)で自らの再生のためにタイで僧になると決めるところとか、同じ学生としてどうしても、その意思の強さに憧れてしまう。

人は逃避と呼べば呼べ!わたしには異世界における象徴行為を通しての「再生」が何よりも必要なのだ。

本書の中でたくさん書かれているのが、テラワーダ仏教(小乗仏教)は、日本のいわゆる大乗仏教とは違い、「実践のないところには何も存在しない」という考え方。何事も全て実践から始まるし、そうでなければ周りからも認めてもらえない。

 

その異文化に自らが入ることで、研究対象としてももちろんだけれど、一人の人間として、そこにある人間の営みを理解するということ。

私はタイの僧院でごくあたりまえの人間生活、ごく普通の日常生活を過ごしたということになる。「裸の人間」の世界を視、経験したことによって、もはや私は地球上の何処たりともエキゾチズムを見出すことはないだろう。人間しか見ないであろう。このような確信が初めて抽象や観念でなく肉体になったと感じている。

タイでは夕方お寺を訪れる時間?(ちょっと忘れちゃった)があるらしいのだが、よく文化人類学で言われる「境界」の概念、仕事に終われ、せわしくなく過ぎていく一日の中で、そういう何にも属さない時間は心にゆとりを与えている。今の日本には、通過儀礼も、この境界の概念もないから、人々の心が貧しいのではないか?という話があって、面白かった。

 

自分を見つめたり、いろんなことを整理したり、逆に何も考えなかったり、今わたしは学生だから時間があるけれど、大人になったらなくなっちゃうのかな。

わたしの中でのそういう時間って、家族とこたつを囲んで、誰がみかんを持ってくるか争って、トランプで決めようってなって、いつの間にか盛り上がって時間が立って、みたいな、一番有意義で大切で、何の意味もない時間。お正月のイメージ。

毎日にちょっとでもお正月があったら、そしていろんなことがリセットされたら、日々の幸福度ってめちゃくちゃ上がるんだろうな。

いつの間にか、涙が頬を伝っている。頬をぬぐう間もあらばこそ涙はあふれてくる。いくらでもいくらでも涙は尽きなかった。私はいい知れぬ感動の中で全身で泣いていた。それは説明しようにも理由のつかぬ、実践しようにも言葉のない感動であった。私のこれまでの生の中で、物心ついてからあのような訳のわからない涙に泣きぬれたことはない。これが、僧修行のもたらした最大のものであった。

この本の結びであり、還俗の瞬間の描写は、ただのフィールドワークの記録を超えて胸にくるものがあって、読んでよかったなあと本当に思えた。こういう経験をした人が見つめる人生って、豊かなんだろうなあ。

異文化理解 (岩波新書)

異文化理解 (岩波新書)

 

ちなみに、村上春樹の「ラオスにいったい何があるというんですか?」でも、ラオスが取り上げられ、彼自身も托鉢に参加したらしい。この本の中で、ラオスについて書かれた章がよかった。村上春樹の紀行文がかなり好き。

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遠い太鼓 (講談社文庫)

遠い太鼓 (講談社文庫)