3/19(火)
スウェーデン語の試験があった。友達たちと励まし合いながら臨んだドキドキの口述試験は、和やかな雰囲気で無事に終わった。オランダ人の女の子が「長距離バス内のトイレで shit することは禁止されているのよ」と突然真顔で語り出して笑ってしまった。
わたしが回答を準備していた質問が偶然本当に出題されて、しかもその回答者としてわたしが指名されたことに対して、試験の後、その友達にペラペラの英語で言われた 「You're super fuckin' lucky」という言葉が滑らかで語呂が良くて頭から離れない。ユーアー・スーパーファッキンラッキー。是非ともわたしの暮石に刻んでほしい、と書こうと思ったが、被害妄想が激しいタイプなので、あと3ヶ月の留学の間にテロか銃撃か何らかに巻き込まれ、死んだ後このブログが見つかり、「ブログに残された『You're super fuckin' luckyと暮石に刻んでほしい』は遺書と見なされるか否か」という皮肉な論争になったらどうしよう、やめてほしい、というところまで想像したのでやめておきます。
3/20(水)
学校へ行く。比較的いつも楽しみにしている、Gastronomy の授業を受ける。出席がないレクチャーの日だからか、10人ほどしか生徒がいなかった。「食べる、ということは学問の場において常に軽視され見下されてきたが、もしもプラトンが食に対して関心を持っていたならば、Gastronomy は現代の学問において重要な主題になっていただろう」と先生が熱弁していた。
帰り道に見かけたカップルが、彼女は赤信号を無視して向こう側に渡り、彼氏は目だけでそれを諌めて、その細い道のこちら側に立ち、ふたり見つめ合いながら静かに青信号に変わるのを待っていた。青信号に変わった途端彼氏は走り出し、彼女も走り出し、細い歩道のど真ん中で彼氏が彼女を捕まえて抱きしめ合うちょうどその瞬間にふたりの横を通過した。歩道の隣の芝生に、なぜかカモが2羽座っていて、二人が抱き合うロマンチック最高潮の瞬間に彼女が「カモ、面白いね」と呟いたのを聞いた。
3/21(木)
土曜日の筆記試験のため、家にこもって今日も勉強。最近ずーっと家にいる抜け殻だ。何にも考えてないまま24時間が早送り過ぎていくような気がする。ただでさえ猫背で姿勢も悪いのに、勉強していると下ばかり向いて目はひとえに、顎はたるみ、首は痛くなる。最悪だ。テストが終わったら上を向いてずっと寝てたい。
わたしの住んでいるところは、部屋中の電気を最大限につけても暗い。電気の数と設置位置を考えると仕方がないことだし、最初に引っ越してきた時からわかっていたことだけれど、最近電球が弱まって一段と暗くなってきた。気付かないふりをしようと努めて早2ヶ月、いよいよ暗い。
電球、変えなきゃなぁと思うものの、面倒臭い。まず椅子を用意して電球を外し、型を確認して、電気屋さんに行って、その型を見つけ、さらにその中でも価格帯や色の様々なものの中から長時間付き合うであろう一つを選び、家に帰り、また椅子に登って付け替える一連の作業。考えるだけで疲れ果てるし、そもそも電球の型番がどこに書いてあって、何を見ればいいのかもよく分からない。
思えばわたしは人生で一度も、自分で電球を変えたことがない。東京に住んでいた3年間で一度だけお風呂の電球が切れたことがあったけれど、東京に両親が来てくれた時に父親が変えてくれた。それは今思うと本当にありがたいことだった。
今わたしのために電球を変えてくれる人はいないし、一人異国でよくわからない電球とかいうもののために奔走しなければならない。生きるって、切れた電球を変えるってことだったんだと気付く。一人で生きると決めたなら、一人で電球を変え続ける覚悟も持ち合わせなければならない。一人で椅子に登って電球を外し、一人で電気屋に行って一人で選んで一人でつけかえる。せめて、椅子を支えてくれる人が欲しいよ。
あくる日、フィンランド人の友達がスープを分けてくれるということで、夜遊びに行った。ラップランド出身で年末に実家に遊びに行かせてもらった、日本語も勉強しているめちゃくちゃキュートで心の美しい人だ。
英語で話すと、わたしの言いたいことや伝えたいことは確かに心の中にあるのに、それを取り出して、言葉に落とし込んだ瞬間まったく違うものになってしまうことが悔しい。ある程度同じような意味を持っていても、それは限られたことを限られた語彙と文法で便宜上伝えているだけで、もうわたしの心にあった時とは全然違う形をしていて、自分の言葉じゃないように思える、そんな自分の英語力が悔しい、という話をした。
彼女はアメリカに住んでいたことがあって、英語をペラペラに話すけれど、それでも「英語を話す時は、言葉が頭から出てくる。フィンランド語を話す時は、言葉が心から出てくる」と言っていて、わたしがいつも感じていた違和感を綺麗な英語で目の前にすっと差し出されたことに驚いて最初何も言えなかった。
ヨーロッパの人(特に若者)は大抵英語を話せるからそれ以外の言語を意欲的に学ぼうとする人はあまり多くないけれど、いつだって世界にはたくさんのドアがあって、言語がそれを開いてくれる。フィンランド語という核があって、それだけでも十分かもしれないけれど、その周りにはたくさんの知識や他の国の言葉があって、そのドアを開けた方がカラフルだ。だから生きている限り、どんなに少しであっても、できる限り新たな言語に挑戦し続けたい、と言っていて、わたしはその彼女の生きる姿勢みたいなものに静かに感動してそして打ちひしがれていた。
新しい言語を学ぶことはいつだって美しい。その先には、まだ知らないたくさんの物語がある。
自分のツイッターを見返したら、ちょうど8ヶ月ほど前、英語に悪戦苦闘していた当時のわたしが同じようなことを呟いていた。今はスウェーデン語にもがいてるぞーあの頃の自分よ。落ち込んで、打ちひしがれて嫌になって、だけどその果てしない素晴らしさに気付いて、また走り出す。そんなことの繰り返しだよなー。今日話せてよかった。